春家は忠家と同一人物とされる説がある。父興家が備前福岡の阿部善定の下に逃れ、その後わずか2年で病死しているにもかかわらず、善定の娘との間に忠家、春家の二人を得ていること。春家が守備した砥石城、金山城、沼城などの拠点がことごとく忠家の記録と重なること、また資料によって入れ替わりが見られ、業績や合戦への参加記録も重なること。また、通称の「六郎兵衛」はごく一部資料のみで、古い資料には忠家と同じ「七郎兵衛」であること。子で直家の養子となった基家が忠家の子とされる資料も多いことなど枚挙に暇がない。
兄直家を評して「前に出る時は、常に死を覚悟し、帷子を着込んでいた」と忠家が語ったとも、春家が語ったともされている。