宇治川電気
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| 種類 | 株式会社 |
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| 本社所在地 |
大阪府大阪市北区梅ヶ枝町164 |
| 設立 | 1906年(明治39年)11月8日 |
| 業種 | 電気 |
| 事業内容 | 電気供給事業 |
| 代表者 |
会長 林安繁 社長 堀新 |
| 資本金 |
200,000,000円 (払込額 146,250,000円) |
| 発行済株式総数 |
旧株 185万株 新株 215万株 |
| 主要株主 | |
| 特記事項:上記データは1942年(昭和17年)度[1]。 | |
宇治川電気株式会社(うじがわでんき、英語: Ujigawa Electric Power Company, Limited.[注釈 1])はかつて日本に存在した電力会社。太平洋戦争以前の日本における大手「五大電力」(東邦電力、東京電燈、大同電力、宇治川電気、日本電力)の一つで、近畿地方を拠点とした。略称は宇治電(うじでん)。現存する大手電力会社の関西電力、及び私鉄の山陽電気鉄道を構成する前身となった企業の一つである。
日本では明治時代中期、日清戦争・日露戦争を背景に工業化が進行し、それに伴い電力需要も増えた。当時は需要地の都市部に火力発電所を設置して主に電気を賄っていたものの、それだけでは需要に追いつかない状況が続いたことから、1900年代以降、山間部に大型の水力発電所を建設し、ここから長距離の高圧送電線で都市部の需要地に送電するという新たな電力開発手法が勃興した。その前の1894年(明治27年)には高木文平の主唱で、宇治池尾村、志津川間に発電用水路開墾の出願が行われていたように[2]、近畿地方でもその傾向は強く、淀川上流の宇治川水系に水力発電所を設置して、都市部に供給する計画が持ち上がった。
大阪電灯社長の土居通夫は京都電灯に呼びかけて計画の実現に動いたが、宇治川の上流に位置する滋賀県地方でも同様の動きがあり、さらには煙草で財を成した岩谷松平も乗り出すなど三者競願の状態に陥った。
結局、大阪商船の中橋徳五郎の調整により、土居通夫を創立委員長に就き、1906年(明治39年)に京都で宇治川電気株式会社を創立した。社長に中橋徳五郎、土居通夫、岩谷松平、高木文平、浅見又蔵が取締役、田中市兵衛、大倉喜八郎、田中源太郎が監査役に就き、1913年(大正2年)に宇治水力発電所(宇治発電所、宇治市宇治山田)を完成させると京阪地域への電力供給を開始した[3]。1924年(大正13年)には志津川発電所(宇治市槇尾山)も運転を開始した。
なお、この頃電気事業の公営化の動きが大都市部で進み、大阪電灯はすべての営業地域を大阪市に買収されてしまい、残る設備も大同電力の手に落ちた。このため、宇治電としては比較的大口の需要家に対する電力供給に専念するとともに、大阪市と電力供給の協定を結んで何とか需要を確保した。京都でも京都市と電力供給を巡って競合状態となり、結局、京都市と京都電灯・宇治電の間で供給地域を分担することで決着を見た。
現存する建築物

1913年(大正2年)に竣工した宇治水力発電所(宇治発電所)は煉瓦造の近代建築である。関西電力宇治発電所として現在も使用されている。
1924年(大正13年)に竣工した志津川発電所は鉄骨煉瓦造の近代建築である。ニュージェック水理実験所として現在も使用されている。