宇津城
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沿革
宇津氏は文明年間(1469–1487年)から史料上に姿が見える[5]。
永正8年(1511年)に宇津元朝が細川高国方として出陣するなど、宇津氏は丹波守護である細川高国の被官として活動していた[5]。高国敗死後、宇津氏は細川晴元に従ったが[6]、天文11年(1542年)4月、波多野秀忠と晴元の重臣・三好政長により宇津城が攻められた(『親俊日記』)[7][8]。
晴元が三好長慶と対立した際は、宇津氏は晴元方に付いている[9]。天文18年(1549年)の江口の戦いで京を追われた晴元は、天文21年(1551年)9月末頃、宇津に入り[10]、この地を本拠とした[11]。同年11月、晴元は波多野秀親に対し、「宇津要害」への入城を求めている[12]。
元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭と織田信長が対立する最中、宇津長成が御供衆に任じられ、いざという時の義昭の動座先に宇津が位置づけられている[13]。
天正3年(1575年)、宇津氏や内藤氏、赤井氏の討伐のため、信長が明智光秀を丹波に派遣[14]。天正7年(1579年)7月、宇津城は光秀に攻められ落城した[15]。
その後、宇津城は光秀により一部改修されたが[16]、天正9年(1581年)には周山城の築城が完了しており、これにより宇津城の役割は終わったとされる[17]。
