安田辰昭
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- 新潟県佐渡郡[2](現佐渡市)生まれ。佐渡農高、東京農業大学に進学する。1955年に小千谷高に社会科教諭として赴任し、野球部監督に就任する。
- 当時の新潟県の高校野球界は、新潟商・長岡高などの新潟市勢・長岡市勢が強く、さらに新潟県を勝ち抜いても隣県・富山県との北越大会の壁が厚かったため、豪雪地の小千谷市からの甲子園出場など想像もできなかった[要出典]。安田は「豪雪地から甲子園へ」を目指して選手を鍛えるが、甲子園出場を果たせないまま1966年に新発田農高に転勤となった。なお小千谷高はこの年の夏に新潟県大会・北越大会を勝ち抜いて、甲子園初出場(第48回選手権)を果たしている。
- 新発田農高でも野球部監督を務めた安田だが、選手集めには苦労があった。しかし監督26年目の1980年夏に、念願の甲子園出場(第62回選手権)を果たす。この大会で4強に進出した天理高に対して堅守で渡り合い、延長戦の末に敗退した。
- 翌1981年夏にも、須藤辰弥投手を中心とした堅守のチームで、夏の甲子園(第63回選手権)に連続出場を果たす。広島商、東海大甲府を連破して、新潟県勢として初の全国大会2勝を果たした。
- その後は新潟東工高、新発田南高に勤務。1987年から1992年まで新潟県高等学校野球連盟の理事長を務めた。
- 退職後はベースボール・マガジン社に勤務し、新潟県の高校野球関連の著書を執筆した。
- 2004年6月日本高校野球連盟と朝日新聞社が表彰する「イヤー・オブ・ザ・コーチ」(20年以上の指導歴があり、高校野球の育成と発展に貢献した人が対象)に新潟県高校野球連盟の推薦を受けて選出され[3]、受賞者代表8人のうちの1人として、8月の第86回全国高等学校野球選手権大会内で行われた表彰室にユニフォーム姿で参加した[4]。
- 2008年2月21日、尿毒症のため死去。74歳没。