安藤貞重
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神道人の前半生
1907年(明治40年)8月19日、福島県に生まれる[1]。父は安藤國重、母トシは福島稲荷神社社家の丹治家出身[2]。
旧制安積中学校(のちの福島県立安積高等学校)出身[2]。1930年(昭和5年)12月までに文部省から歴史科の教員免許状を取得した[3]。1931年(昭和6年)、國學院大學国史学科卒業[1]。同年、累代社家を務めている実家の安積国造神社の社掌に就任[1]。
1933年(昭和8年)、福島稲荷神社社司の丹治経也が帰幽すると、その子経幸がまだ幼かったため代わりに同社社司に就任[1][2]。1934年(昭和9年)から社殿復興を推進し、後任を学友で教員を務めていた阿部信に託して1936年(昭和11年)同社司を退任、安積国造神社社掌に復任した[2]。1939年(昭和14年)、父で社司の國重が帰幽すると[4]、社司に昇任し[1]、福島県神職会安積郡郡山市支部長に就いた[2]。
神道教化の務め
1946年(昭和21年)、福島県神社庁が発足すると同初代参事に就任[2]。1949年(昭和24年)福島県神社庁理事に就任[2]、1950年(昭和25年)、同理事に再就任[1]。1951年(昭和26年)、神社本庁評議員に就任[2]。1953年(昭和28年)、第59回神宮式年遷宮に際して各県一名が選任される神宮宮掌補に任じられ、これに奉仕した[5]。
1954年(昭和29年)郡山市・安積郡敬神婦人連合会、1955年(昭和30年)未歳生まれが集う明羊会、1956年(昭和31年)朔日に朝日を拝む朝日会など各種団体を設立[6]。神道教化を目的とした「うたごえ運動」を全国展開し、1958年(昭和33年)には『神道愛唱歌集』を自ら編んでを神社音楽振興会より発行した[1][6]。1960年(昭和35年)には『氏子青年の歌 朝日子』を作詞し、同年神宮で行われた全国氏子青年大会で発表演奏が執り行われた[6][注釈 1]。
こうした活動が認められ、1965年(昭和40年)には神職階位浄階、神職身分一級を授けられた[6]。さらに1967年(昭和42年)、福島県神社庁初代教化部長に就任した[6]。1975年(昭和50年)、伊雑宮の鳥居を拝領した[6]。
日本酒道の探求
お茶には茶道、花には華道、書には書道、剣には剣道があるのに酒には無いことを憂い、神と人との直会の場に於ける正しい酒飲みの道を究めんとすべく、1953年(昭和28年)、日本酒道会を設立し、自ら同会の会長に就任した[+ 1]。これは社頭の賑わいを興すためでもあった[6]。会には酒道五則を定め、会員には段位を授けたという[+ 1]。
教育面での活動
1948年(昭和23年)、日本の復興は人づくりから、祖国の将来を担う次世代の子供たちのために、という考えのもと、安積保育園を設立[+ 2]。1951年(昭和26年)、安積幼稚園として認可された[+ 2]。同園の運営は、弟の日本画家安藤重春が主事としてこれを担った[+ 2][2]。
1953年(昭和28年)、郡山市小中高等学校連合PTA会長に就任、翌54年(昭和29年)國學院大學幼稚園教員養成所設立に尽力した[6]。さらに翌55年(昭和30年)、全国神社保育団体連合会副会長に就任した[6]。
1963年(昭和38年)3月、初代安積幼稚園園長宗穆が退任したことに伴い、第2代園長に就任[+ 2]。同年10月の創立15周年記念行事、1977年(昭和52年)8月の創立30周年行事、1982年(昭和57年)7月の創立35周年行事を執り行い、1991年(平成3年)4月、弟の重春に3代目となる園長職を継承した[+ 2]。
この間、1971年(昭和46年)には安積高校同窓会「桑野会」の会長を務め、兼ねて務めた旧本館保存会会長として同高校旧本館の国重要文化財指定運動を推進、尽力した[6]。
神職人生の晩年
1987年(昭和62年)、『福島民友新聞』に「私の半生」と題した連載を開始した[6]。
1989年(平成元年)、「榊しげる」の名で『八幡ばやし音頭』を作詞し製作した[6]。翌年、三ノ鳥居・手水舎・石段を代替わりの御大典事業として執行、造営した[6]。
1991年(平成3年)、街こおりやま社主催の第一回ふるさと大賞を受賞[6]。翌年には神職身分特級に進んだ[6]。
1997年(平成9年)1月20日、89歳で帰幽した[6]。翌年、新聞に連載されていた「私の半生」や趣味の川柳を集めた『○い玉子も切りようで□:安藤貞重 私の半生』が刊行された[6]。