安見元勝
From Wikipedia, the free encyclopedia
安見勝之の長子として生まれる[2]。父・勝之は慶長5年(1600年)より加賀前田家に仕えて6000石を領し[2][3]、父の没後、元勝はその跡を継いだ[2][4]。勝之は安見流砲術の祖である安見右近丞一之[5]と同一人物と見られ[6]、元勝もまた、田付景澄・稲富祐直とともに砲術の三傑と称されるほどの名人であった[7][4]。
大坂の陣では主君・前田利常に従い、足軽頭として鉄砲隊を率いた[2]。左手(または右手)の3指を失うなどの重傷を負い、敵にあわや首を取られそうになるも味方に助けられ生還[8][9]。家臣らは敵の首13を取った[8]。この功によってか14000石に加増された[8][3](元勝本人は1万石で与力が4000石ともいう[10])。
寛永2年(1625年)、森右近大夫忠広と同じ名を避けるため、右近から隠岐に改称した[2][11]。
寛永10年(1633年)または同13年(1636年)、能州島(能登島)へ配流され、5、6年の内に病死した[12][13]。主君から覚えめでたい元勝が配流に至った理由は不明で、皆怪しんだという[14][10]。
弟・伊織は1000石を知行し、その子・伊織(二代目)がそれを引き継いだが、のち高野山に入り僧となった[7][10]。また元勝の子も隠岐と名乗ったが、父と同じく配流され、隠岐の子・与左衛門は4代藩主・綱紀に仕え300石を領した[7]。その子・瀬兵衛は200石を知行し、以後子孫はその禄を襲った[15]。