安部谷横穴群
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遺構
第Ⅰ支群
ほぼ一直線に並ぶ5基の横穴墓が現存する[3]。安部谷の西側斜面に位置し、国史跡に指定されている[3]。遺物については後述(#遺物)。
1号穴は支群の北端に位置し、玄室と羨道の一部が現存する[3]。玄室は四注式整正家形の平入り構造で、奥行2メートル×幅2.85メートル×高さ1.8メートルである[3]。玄室内には左右に屍床が設けられている[3]。玄門は玄室の床面より高くなっており、出雲型石棺式石室の構造に類似する[4]。羨道は幅1.9メートル×高さ1.76メートルで、完存しないため長さは不明[4]。天井は妻入り構造をとる[4]。大谷&松山は出雲における横穴墓の類型を再分類するなかで、出雲東部に広く分布する「ドーム系統」とは異なる「整正家形」の代表例のひとつとして第Ⅰ支群1号穴を挙げている[5]。
2号穴は1号穴の南側に位置し、玄室と羨道の一部が現存する[4]。玄室は四注式整正家形の平入り構造で、奥行2.1メートル×幅2.4メートル×高さ1.6メートルである[4]。玄室内には左右に屍床が設けられている[4]。羨道は幅1.7メートルで、完存しないため長さ・高さは不明[4]。天井は家形であったと思われるが、崩壊のため不詳[4]。
3号穴は2号穴の南側に位置し、玄室と羨道の一部が現存する[4]。玄室は四注式整正家形の平入り構造で、奥行2.1メートル×幅2.2メートル×高さ1.57メートルである[4]。玄室内には左右に屍床が設けられている[4]。玄門は玄室・羨道の床面より高くなっており、出雲型石棺式石室の構造に類似する[4]。羨道は玄門側の幅1.7メートル×高さ1.6メートルで、完存しないため長さは不明[4]。天井は入り口に向かって前傾する[4]。
4号穴は3号穴の南側に位置し、玄室と羨道の一部が現存する[6]。玄室は整美な整正家形の平入り構造で、奥行2.0メートル×幅2.0メートル×高さ1メートルである[7]。玄室内には左右に屍床が設けられている[7]。羨道は幅1.54メートル×高さ1.52メートルで、完存しないため長さは不明[8]。天井は妻入り構造をとる[8]。
5号穴は支群の南端に位置し、玄室と羨道の一部が現存するが製作途中段階のものと考えられている[8]。玄室は粗雑な造りで、奥行2.03メートル(左側)/1.86メートル(右側)×幅1.68メートルで、側壁と天井の境界が不明瞭な部分もあり高さは不詳[8]。羨道は玄門側の幅1.5メートル×高さ1.5メートルで、完存しないため長さは不明[8]。天井は平坦である[8]。
第Ⅱ支群
1基の横穴墓が現存する[9]。一番谷奥の東斜面頂上付近に位置する[9]。
1号穴は玄室と羨道の一部が現存する[9]。玄室は整美な四注式整正家形の平入り構造で、奥行1.78メートル×幅2.18メートル×高さ1.4メートルである[9]。玄室内には左右に屍床が設けられている[9]。羨道は玄門側の幅1.74メートル×高さ1.32メートルで、完存しないため長さは不明[9]。天井は平坦で、入り口に向かって前傾する[9]。
第Ⅲ支群
1基の横穴墓が現存する[9]。第Ⅱ支群から谷の入り口に向かって約40メートルの所に位置する[9]。遺物については後述(#遺物)。
1号穴は玄室と羨道の一部が現存する[9]。玄室は四注式整正家形の平入り構造で、正確な数値は不明だが奥行約2.0メートル×幅約2.1メートルである[9]。羨道は玄門側の幅1.6メートルで、完存しないため長さ・高さは不明[9]。盗掘を受けていると思われる[9]。
第Ⅳ支群
1基の横穴墓が現存する[10]。谷の入り口付近、東側斜面に位置する[10]。
1号穴は玄室と羨道の一部が現存する[10]。玄室は四注式整正家形の平入り構造で、奥行2.0メートル×幅2.3メートル×高さ1.3メートルである[10]。玄室内には左右に屍床が設けられている[10]。玄室床面には拳大の礫が多く確認された[10]。羨道は幅1.8メートルで、完存しないため長さ・高さは不明[10]。天井は平坦で、入り口に向かって前傾する[10]。
第Ⅴ支群
1基の横穴墓が現存する[10]。第Ⅳ支群から北に約20メートルの所に位置する[10]。
1号穴は玄室と羨道の一部が現存する[10]。玄室は四注式整正家形の平入り構造で、奥行1.75メートル×幅2.1メートル×高さ1.2メートルである[10]。玄室内には左右に屍床が設けられている[10]。羨道は幅1.5メートル×高さ1.45メートルで、完存しないため長さは不明[10]。天井は平坦である[10]。
第Ⅵ支群
1基の横穴墓が現存する[10]。谷の入り口付近、西側斜面に位置する[10]。
1号穴は玄室と羨道の一部が現存する[10]。玄室は四注式整正家形の平入り構造で、奥行2.0メートル×幅2.1メートル×高さ1.4メートルである[10]。玄室内には左右に屍床が設けられている[10]。羨道は幅1.8メートルで、完存しないため長さ・高さは不明[11]。天井は家形で、入り口に向かって前傾する[10]。
湯田支群
3基の横穴墓が現存する[12]。第Ⅱ支群の南側に位置する[12]。湯田支群は東出雲町教育委員会が「湯田横穴群」として登録していたものである[13]。
1号穴は支群の東端に位置し、玄室と羨道の一部が現存する[12]。玄室は四注式整正家形の平入り構造で、奥行1.9メートル×幅2.4メートル×高さ1.4メートルである[12]。玄室内には左右に屍床が設けられている[12]。羨道は玄室側の幅1.58メートルで、完存しないため長さ・高さは不明[12]。天井は入り口に向かって前傾する[12]。
2号穴は1号穴の西側に位置し、玄室と羨道の一部が現存する[12]。玄室は粗雑な整正家形で、奥行2.0メートル(左側)/1.9メートル(右側)×高さ0.98メートルである[12]。玄室内には左側に屍床が設けられている[12]。玄門は崩壊が激しい[12]。羨道は幅1.44メートルで、完存しないため長さ・高さは不明[12]。天井は入り口に向かって前傾する[12]。
3号穴は2号穴の西側に位置し、玄室と羨道の一部が現存する[12]。玄室は四注式整正家形の平入り構造で、奥行2メートル×幅2.5メートルである[14]。玄室内には屍床の一部が確認されている[15]。羨道は玄室側の幅約1.3メートルで、完存しないため長さ・高さは不明[15]。天井は平坦である[15]。
遺物
調査史
1925年の『島根県史』に「大庭村大字大草字安部谷」に「天然岩石を鑿開して石室を作れる古墳九處接近して存在す」と報告されているもの[17]がこの遺跡に関する最初の報文とされる[18]。後藤蔵四郎は『島根県史跡名勝天然記念物調査報告』に詳細な報告を寄せ、近接して並ぶ5基と単独の1基の計6基の横穴が現存すること、代表的な1基の構造と規模を記したうえで他の5基も同様のものと考えられること、時期は大化改新以前で被葬者は国司安部臣の可能性があることなどを指摘した[19]。翌年、国史跡に指定された(後述)。
戦後、山本清がこの遺跡に注目し、出雲型石棺式石室に類似する横穴墓の例として安部谷横穴群を挙げた[20]。また5基並んだものを単位群と呼び、右の3基が細部の造りまで全く同じであることから単位群は最初から計画的に配置された同時期の築造とみて、単位群を1つの家族と考えた[21]。
山本の分布調査を踏まえた出雲考古学研究会は、分布調査によって新たに発見されたものを含めた全13基を7つの支群(第Ⅰ-Ⅵ支群、湯田支群)に区分し、各墳墓について実測図を作成した[22][23][24]。この報告は『八雲立つ風土記の丘』に3回に分けて掲載されたが、のちに『遺跡と地域と考古学』にまとめられた[25]。