出雲型石棺式石室
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出雲考古学研究会は「出雲型」石棺式石室の定義として以下の4点を挙げている[2]。後述の1期はこれらの全ての要素を具備するわけではないがプロトタイプとして認め、1期から3期を「出雲型」石棺式石室とし、4要素が揃う2期から3期のものを「狭義の石棺式石室」と呼ぶ[3]。
- 刳り抜き玄門をもち、その全面周囲には閉塞石を受ける刳り込みを有す。
- 切石を使用する。
- 四壁、天井、床石は一枚石を指向する。
- 前壁、奥壁で側壁をはさむ石材組み合わせ。
また、石室の開口方向がかなりの比率で南向きを指向していること、1期を除き墳丘形態が判明するものは全て方墳であることも特徴的である[4]。これらの共通性がある一方で、天井石の形態はバラエティに富む[5]。
羨道は現存するものから判明する限り、側壁、床、天井を1枚ないし数枚の切石で構成し、羨門は何らかの形で閉塞されることにより玄門の閉塞石と合わせて二重の閉塞をおこなっている[2]。また、羨道の前面には前庭状の施設があると考えられる[2]。
石室閉塞の状況などから追葬はおこなわれず、単葬であったと考えられる[6]。
歴史
起源
出雲型石棺式石室は古くから九州の古墳と関連して考えられ[7][8][9][10]、とくに熊本県域の古墳は、横口式家形石棺、刳り抜き玄門、閉塞石などの要素において出雲との関連がうかがえるという[11][12]。切石造石室の技術は熊本から導入されたが、6世紀中葉以降に一時的に出雲東部と九州の関係が希薄になったことで石室のデザインは在地的な展開を遂げたと考えられる[13]。
一方で、近畿のシシヨツカ古墳の出現と出雲型石棺式石室の出現が同期している可能性も示されている[14]。
1期(導入期)
6世紀後葉とされる[15]。古天神古墳、伊賀見1号墳が該当する[16]。古天神は上記の4要素のうち切石の1点、伊賀見は刳り抜き玄門、切石、1枚石指向の3点しか備えていないが、天井にみられる家形石棺の要素や屍床仕切石、羨道部の接続法などの要素から「出雲型石棺式石室の祖形」といえるものである[16]。墳形は2古墳とも前方後方墳である[16]。
2期(定型化)

6世紀末とされる[15]。狭義の石棺式石室のうち、「玄室が横長の平面形を呈し、各壁がかなり内傾して立てられ、これに狭い羨道がつくもの」[17]。意宇郡、島根郡の各地で築造されている[16]。この時期の出雲型石棺式石室は玄室幅/玄室長が1.4以上の横長長方形のものとそれ以下の方形に近いものに区分することができ、これにより2期を細分することができる[18]。
3期(完成)

7世紀前半とされる[15]。狭義の石棺式石室のうち、「玄室が正方形に近い平面形を呈し、各壁は垂直に近く立てられ、比較的広い羨道がつくもの」[17]。意宇郡中央部・東部、島根郡の現・持田町周辺に分布が限られる[3]。羨道が広くなり複室構造状になるものがあるが、何らかの機能は想定されるものの通常の複室構造とは基本的に異なるとされる[19]。
4期(消滅)

およそ7世紀中葉以降とされる[3]。廻原1号墳、若塚古墳などが該当する[3]。近畿の横口式石槨の影響下に成立したとみられる石室である[17]。刳り抜き玄門、閉塞石を受ける刳り込みなどといった、出雲型石棺式石室の構造も一部に取り入れられており[17]、石室内部の空間構造・空間利用には地域独自の発達を看取できる[20]。

