客氏
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生涯
生い立ち
平民の侯二の妻であり、息子侯国興をもうけている[1]。
入宮
万暦33年(1605年)、18歳で皇孫朱由校(後の天啓帝)の乳母となり、これを機に後宮へ入った。
これは当時の明朝宮廷の「皇子が生まれた場合は女児を産んだ乳母を用い、皇女が生まれた場合は男児を産んだ乳母を用いる」という規定には合致していなかった。一方、研究者の中には、当時は宮中の制度が厳格には運用されていなかったためであると考える者もいる。
客氏が入宮して間もなく、夫の侯二は死去した[1]。
万暦48年(1620年)、天啓帝が即位すると、ほどなく客氏は「奉聖夫人」の称号を与えられた。
また、息子侯国興は錦衣衛指揮使に任命された。
明宮の慣例では、客氏は乾西二所に居住することになっていたが、特別に居所の側室へ食事所を設けることを許された。
天啓元年(1621年)には紫禁城北西部の咸安宮へ移り住み、さらに天啓帝の特旨によって、いつでも宮中を出て自宅へ帰ることが許可された[1]。
また、息子侯国興のほか、弟の客光先、魏忠賢の兄魏釗もいずれも錦衣衛千戸に任命された。
権勢の拡大
客氏は天啓帝の寵愛を背景に、魏忠賢と結託して数々の悪事を働き、二人は「客魏」と並び称され、長年にわたり朝政を左右した。
客氏の誕生日になると、天啓帝は必ず自ら祝いを述べた。
客氏が外出する際には八人担ぎの大轎に乗り、その威容は皇帝にも劣らなかった。
宮中への出入りには数百人の護衛が付き従い、宦官たちはひざまずいて出迎え・見送りを行い、道路は清められた。
当時、市井では道士が次のような歌を口ずさんだという。
これは客氏・魏忠賢一派の専横を風刺したものであった。
天啓帝からの寵愛
客氏は天啓帝の前では決して乳母として振る舞わなかった。
史書によれば、四十歳を過ぎても十代後半の美女のような容貌を保ち、流行の衣装をまとっていたという。
その美貌や華美な服装は、その年齢や身分にはふさわしくないほどであった。
若さを保つため、客氏は普段から三、五人の若く美しい宮女を選び、その唾液で髪を梳かせていた。
こうすると黒く艶やかな髪を保つことができるとされ、客氏はこれを「嶺南の老人から伝えられた『群仙液』という秘法であり、老いても白髪にならない」と語っていた。
宮中では毎日濃い化粧を施し、江南風の衣装を好み、広い袖、ゆるく結い上げた髪など妖艶な装いをしていた。
そのため宮女たちも競って彼女の装いを真似るようになった。
豊かな黒髪は一層の色香を添え、客氏は天啓帝の前で女性的な魅力を誇示し、昼夜を問わず皇帝のそばに侍った。
また客氏は料理の腕にも優れ、天啓帝の食事は必ず彼女が味見をしてから供されたという。
魏忠賢との関係
「魏忠賢が休暇を取れば客氏が宮中に留まり、客氏が休暇を取れば魏忠賢が宮中に残る」と言われるほど密接な関係であった[2]。
魏朝と魏忠賢は、ともに客氏を巡って激しく争ったことがあったが、最終的には先輩宦官王安の裁定により、客氏は魏忠賢の相手とされた。
後宮での横暴
客氏は非常に残忍な性格で、天啓帝の寵愛を受けた妃嬪たちを次々と害したと伝えられる[3]。
その一人が張裕妃である。
張裕妃は妊娠して出産間近であったが、客氏は彼女へ供給されるはずの飲食を断った。
飢えと渇きに耐えられなくなった裕妃は、大雨の夜に軒下へ出て雨水を受けて飲み、最後は泣き叫びながら息絶えたという。
粛清
天啓7年(1627年)11月、天啓帝が崩御し、崇禎帝が即位すると、宦官魏忠賢と客氏の一派は粛清された。
魏忠賢は阜城で首を吊って自害した。
同年11月17日、乾清宮の管事趙本岐は命を受け、客氏を浣衣局で鞭打ちの刑により処刑した。
客氏は数え年37歳(あるいは40歳ともいう)であったとされる[1]。
また、息子の侯国興、弟の客光先、魏忠賢の甥魏良卿も同日に斬首刑に処された。
天啓帝との関係をめぐる説
『天啓宮詞』によれば、客氏の私生活は放縦であり、宦官魏朝や魏忠賢と対食の関係にあった。
「毎朝早く乾清宮の暖閣へ入り皇帝に仕え、深夜になってから咸安宮へ戻った」
と記されている[4]。
『明季北略』には、
客氏は妖艶な容姿であり、明熹宗(天啓帝)はその美貌に惑わされた
と記されている。
しかし研究者の中には、この記述は他の史料には見られず、あくまで伝聞として扱うべきであると指摘する者もいる[1]。
清・道光年間の湖州の著述家抱陽生は、客氏は美貌と妖艶さを利用して乳母という立場で天啓帝を誘惑し、二人は肉体関係を持った可能性があると論じている。
しかし、これを裏付ける確実な史料は示されていない[5]。
また、明代は女官制度が整備されていたことから、客氏が宦官と結託して皇帝を誘惑したというこの仮説の信憑性は、一般には高くないと考えられている。