室賀正容は室賀正発の子として生まれ、本所に屋敷を構え、家禄は5500石であった。知行地は遠江国山名郡・城東郡・佐野郡、および美濃国各務郡に及んだ。
安政6年(1859年)12月11日、小姓に任じられ、美作守を称し、切米500俵を給された。万延元年(1860年)12月16日には遠江守となり、諸大夫に列せられた。文久2年(1862年)1月24日には但馬守に改め、翌文久3年(1863年)6月20日、家督を相続した。
元治元年(1864年)5月24日、新番頭(四番組)に昇進し、伊予守を称した。同年6月22日には小普請組支配を兼ね、8月13日には小姓組番頭(四番組)に転じた。翌8月14日には長州征伐御供として出陣し、慶応元年(1865年)5月にも進発御供を命じられている。
慶応元年(1865年)10月16日、大目付に任じられ、幕府中枢の監察・統制業務を担った。慶応2年(1866年)6月23日には側衆となり御用取次を務め、同年8月に帰府、9月には上坂した。
慶応2年(1866年)1月、幕府は長州藩処分案について勅許を得たため、26日にこれを伝達する目的で小笠原長行を広島へ派遣した。この際、大目付であった室賀正容も随行した。
慶応4年(1868年)1月3日、側衆のまま甲斐守と改称したが、同年2月9日、寄合となった。同年、徳川慶喜が大阪城を退去した後、徳川氏の処分に関して賊徒に随行し、反逆が明白であるとして官位を剥奪された。