備後国尾道(現広島県尾道市)で渡橋貞兵衛(忠良)の五男として生まれる[4][5]。宮原は父方の祖先の姓であり、のちに継ぐ[5]。渡橋(おりはし)家は尾道の豪商の一つであり、当時尾道商人たちで形成していたサロンのメンバーの一人であり[6]、菅茶山や頼山陽などの当代を代表する文化人と交わっていた[5]。山陽が渡橋家に泊まり、その際に節庵を弟子にしたとされる[4]。
京に出て、山陽の家塾に入塾する[4]。内弟子同様で[1]、初めは同郷の橋本竹下に世話になったという[4]。後に山陽の塾で頭角を現す[4]。27歳のとき山陽死去[1]。その後は江戸に出て昌平黌(昌平坂学問所)に学ぶ[2]。
京都に戻り家塾をひらいた[2]。門下生には跡見花蹊・武井守正がいる。明治18年死去。著書に『節庵遺稿』がある。