武井守正
From Wikipedia, the free encyclopedia
播磨国飾東郡姫路(現姫路市)で姫路藩士・武井領八の二男として生まれた[1]。藩校好古堂に学び安政4年(1857年)専業生に抜擢され、京都の宮原潜叟に儒学を、大坂の萩原広道に国学を学ぶ。
帰藩後好古堂授読を命ぜられたが、勤王派に加盟、国事に奔走。 1864年(元治元年)に脱藩を企てたことが露見して永牢の身となる。王政復古を受けて約5年後に釈放、自宅謹慎となる[2]。その後、新政府に出仕。白石県権知事、平県権令などを歴任、内務省・農商務省各局長などを経て1888年(明治21年)10月鳥取県知事となり、1891年(明治24年)4月まで在任。明治25年(1892年)1月21日石川県知事に任命されたが、2月2日依願免官となる。明治24年(1891年)12月22日、貴族院勅選議員に任ぜられ[3]、1923年(大正12年)7月12日、枢密顧問官に転じ[4]、同月23日に貴族院議員を辞職した[5]。
1893年(明治26年)から実業界に転じ帝国海上保険、日本商業銀行、明治商業銀行などを創立し役員となった。1907年(明治40年)男爵を授けられた。1909年(明治42年)11月21日、錦鶏間祗候に任じられた[6]。
