宮崎淳臣
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人物
森田靖郎著の『告白 731部隊』によれば、宮崎が中尉時代、纏指揮大佐である川島清の命令による細菌雨下試験の指揮を執っていたことを元731部隊の篠塚良雄(旧姓・田村)が供述している[4]。
千葉県歴史教育者協議会編集の『学校が兵舎になったとき―千葉からみた戦争 一九三一~四五』によれば、1945年4月、ワクチン血清製造施設の陸軍軍医学校中山出張所長であった宮崎は「本土決戦に備え10万リットルのガス壊疽血清を製造せよ」との命令を受け、横浜にある軍馬の集結所である「中央馬廠」に行き、そこで、ワクチンの「抗体馬(免疫馬)」供給への配慮を申請したことが記されている[注 1]。その後、中山競馬場には500頭の馬が収容されたが、宮崎は千葉県当局と相談して、船橋市立中学校および市川中学校の2年生約600人を馬の管理にあてた。尚、宮崎から千葉県当局への動員要請が中学校にどのように指示命令されてたかそのルートは不明である。
略歴
- 1935年4月1日 - 京都帝国大学医学部入学
- 1939年
- 3月31日 - 同部卒業
- 6月30日 - 陸軍軍医中尉任官
- 7月1日 - 陸軍軍医学校乙種学生入校
- 1940年6月18日 - 同校卒業、ハルピン石井部隊田部井研究室入所
- 1941年8月1日 - 任陸軍軍医大尉
- 1943年4月1日 - 陸軍選抜学生として伝染病研究所細谷研究所陸軍軍医学校防疫研究室入所
- 1944年
- 8月1日 - 任陸軍軍医少佐
- 12月1日 - 同所卒業、陸軍軍医学校付兼中山出張所長被命
- 1945年
- 1946年
- 2月1日 - 千葉県血清製造所開設に伴い同所所長代理兼主任技術者として勤務
- 4月30日 - 公職追放により同所退職
- 1958年 - 京都市右京区の嵯峨嵐山で宮崎神経科嵯峨病院(現・医療法人淳宰晃会 嵯峨さくら病院)開業[5]