のちの愛知県出身[注 1]。宮田恒七郎の長男。幼くしての鷲津蓉裳の門に、ついで佐藤牧山に門に入り学ぶ。1872年(明治5年)義校の世話役となり1873年(明治6年)5月、郡民教導に転じ、翌年の1874年(明治7年)5月、戸長に就任する。
1878年(明治11年)1月、村会議員となり、同議長を経て、1880年(明治13年)1月に愛知県会議員に当選する。地方衛生会委員、県会常置委員、県会副議長などを歴任したのち、1886年(明治19年)3月、丹羽・葉栗郡長に任命されるが同月中にこれを辞し、治水委員に転じ、所得税調査委員、徴兵参事員、町会議員、県会郡部議長などを歴任した。ほか、愛知県農工銀行取締役や名古屋土地監査役などを務めた。
1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では愛知県第4区から出馬し当選するが、任期途中に辞任した。