富士野往来

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富士野往来』(ふじのおうらい)は、富士の巻狩り曽我兄弟の仇討ちを題材とした往来物教科書)の一種。

表題の「富士野」とは、富士の巻狩りが催された駿河国の地名(現在の静岡県富士宮市)である。『富士野往来』は富士の巻狩り曽我兄弟の仇討ちを消息文等に仮託して叙述した、往来物の一種である。作者は不明[1][2][3]

初等教育の教科書として用いられ、例えば文化13年(1816年)の永壽堂西村屋与八の目録[注釈 1]には以下のようにある。

富士野往来 大本一冊 よりとも公 ふじのさかりのことを文章につづりたる 幼学児童乃手本也十返舎一九案『手紙之文言』より

「富士のさかり」は富士の巻狩りのことであり、また同書は「幼学児童の手本」と紹介されている。

歌川芳藤『源頼朝富士野巻狩之図』

このように特色として歴史上の事象が題材となっている点が挙げられ[4][5][6]、また往復書簡(手紙文)以外の形式を含めた往来物の先駆けであることが指摘される[7][2]。特に第九状「曽我兄弟仇討ちの状況並にその成敗を報ずる状」は、1つの文学作品として評価するものもある[8][9]

文明16年(1484年)『温故知新書』に「富士往来」とあり[10][11][注釈 2]、また天文17年(1548年)『運歩色葉集』との近似性が指摘され、同書が『富士野往来』の内容を引くとする見解もある[12]。他『節用集』諸本に「富士往来」「富士野往来」等と見える[13][14][注釈 3]

『嘉良喜随筆』は私年号「烈擲」の考察として同書を引用し、「富士往来」とある[15]。同じく私年号の考察において今井似閑『万葉緯』には「富野往来」とある[16][17]

成立

李氏朝鮮の『経国大典』(1471年)に日本の教科書として「…庭訓往来 (中略) 富士」と見える[13][18]。この「富士」を『富士野往来』に比定し、伝来までの時差等を考慮して、成立を室町時代初期と想定するものがある[19]。また『曽我物語』成立以後とするものや[20]、真名本『曽我物語』成立以後でその文体や経国大典の事例から室町時代初期とするものもある[21]。このように、室町時代初期(南北朝時代)の成立を想定する論が多い[22][23]

現存する最古の写本は文明18年(1486年)のものである[24][25][2]。以後、歴史の中で断続的に出版され続けた[26]。曽我兄弟が仇討ちを成功せさた後の描写として、以下のようにある。

然ルニ今、駿河ノ国富士ノ南東宮ノ原、藺手之屋形二於テ、會稽之恥辱ヲ雪、倚會哉々々々ト。『富士野往来』(大永3年本)[27]

このように曽我兄弟の仇討ちの場所を「藺手(いで)の屋形」としており、これは『曽我物語』と一致している。一方『曽我物語』が「伊出」「井出」「井手」[注釈 4]とするのに対し、「藺手」という表記は他に『運歩色葉集』にのみ確認される珍しいものであるため、特殊な成立背景が想定されている[28]

構成

最古の写本である文明18年本がそうであったように、元々は全五状であった(古態本)[29][30][31]。以後次第に書状が追加され、近世を通しては全九状で落ち着いている[30]。全九状の内容と古態本との対応を以下に示す[32][33]

内容 古態本との対応
第一状 廻文状 卯月十一日附 古態本第一状
第二状 副文状 卯月十二日附 古態本第二状
第三状 着到状 五月十三日附 古態本第三状の一部
第四状 配分状 五月日附
第五状 巻狩りの規模・実況を報ずる状 五月日附 古態本第三状の一部
第六状 小次郎・禅師房召捕りの執達令状 五月晦日附
第七状 小次郎等逮捕不能の陳情状 五月晦日附
第八状 曽我兄弟の狼藉についての問合状 五月廿八日附 古態本第四状
第九状 曽我兄弟仇討の状況並にその成敗を報ずる状 五月廿八日附 古態本第五状

特色

脚注

参考文献

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