香川県仲多度郡象郷村の森粂八の三男[1][2]。少時、郷里の私立中学明道校に学ぶ[1]。1887年に上京して皇典講究所に入り、1892年に優等で卒業する[1][2]。群馬県皇典講究分所教授に任ぜられ、傍ら県立中学教師となるが、1年在職して帰京する[1][2]。日々図書館に入り、独学独習する[1]。和漢の文学に通じる[2]。
日清戦争に予備として召集され、広島輜重兵大隊に入る[1]。凱旋すると、東京深川富岡八幡宮宮司・富岡有永の養子となり、社司に補せられ、養父の業を継ぐ[1]。皇典講究所評議員となり、東京府神職会副会長に推され、奏任の待遇を受く[2]。1949年に死去[2]。叙従六位[2]。