富永冬樹 From Wikipedia, the free encyclopedia 生誕 江戸死没 1899年6月30日国籍 日本別名 一造、市造とみなが ふゆき富永 冬樹 生誕 江戸死没 1899年6月30日国籍 日本別名 一造、市造職業 裁判官、翻訳家著名な実績 大審院部長判事、東京株式取引所理事、岩倉使節団 テンプレートを表示 富永 冬樹(とみなが ふゆき、生年不詳 - 1899年6月30日[1])は、明治時代の裁判官、翻訳家[2]。岩倉使節団の一員[3]。東京株式取引所理事も務めた。別名、一造、市造[4]。 江戸出身。代官手代の富永惣五郎の長男として生まれる。実弟(惣五郎の次男)は矢野二郎(高等商業学校校長、現・一橋大学)[2]。 ペリー来航時に日本側通訳を務めた森山栄之助が、江戸小石川で開いていた英語塾で学ぶ[5]。弟の二郎も同塾で学んでいる。 維新後に一造から冬樹へ改名[4]。 1871年(明治4年)、田辺太一厄介(世話人)という身分で岩倉使節団に随行し、その後兵部理事官随行を命じられる[2][3]。1873年(明治6年)に帰国[2]。 1875年(明治8年)、司法七等判事。1878年(明治11年)、東京上等裁判所判事。1882年(明治15年)、東京控訴裁判所判事。1884年(明治17年)、松江始審裁判所長。1888年(明治21年)、京都始審裁判長を歴任したのち、大審院部長判事を務めた。1894年(明治27年)に辞職[2]。 名裁判官ぶりから明治時代の大岡越前守として戦前の学校教科書にも載せられていたとされる[4]。 子に富永敏麿[2]。妹の益は、ハワイ移民局長・イタリア総領事だった中山譲治夫人。妹の栄は、三井財閥の益田孝夫人[6]。孫は富永惣一。 脚注 ↑ 『官報』第4800号、1899年7月3日。 1 2 3 4 5 6 国立公文書館 アジア歴史資料センター 『富永冬樹』 1 2 国立公文書館 アジア歴史資料センター 明治150年 インターネット特別展 岩倉使節団『富永冬樹』 1 2 3 『富永冬樹伝 : 教養の明治裁判官』柴興志 著,2008年6月 ↑ 飯田 鼎「福地桜痴と福沢諭吉 : 『懐往事談』と『福翁自伝』をめぐって」『三田学会雑誌』第82巻第4号、慶應義塾経済学会、1990年、669-693頁、ISSN 00266760。 ↑ 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー 『富永冬樹(とみながふゆき)』 公職 先代河津祐之 函館控訴裁院検事長1891年 次代奥山政敬 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。表示編集 Related Articles