寺沢正明は、代々江戸幕府奥御膳所(台所)の役人を務めた家に生まれ、幼少期より見習役として幕府に仕えた。岡田十内に学び、成長後は奥詰銃隊へ編入され、幕末の動乱期には彰義隊へ参加した。
彰義隊結成後、寺沢は第八番長木下福次郎の副長となり、初代頭取渋沢成一郎の脱退を怒り、隊士4名とともに渋沢を殺害しようと襲撃したが失敗したと伝わる。上野戦争当日の15日には天野八郎に属する遊軍として奮戦した。
敗走後は上原仙之助とともに牛込南蔵院で剃髪し僧形となって潜伏したが、追及が迫ると山谷堀から向島へ脱出、両国を経て逃れた。その後密かに仲間と連絡をとり、200余名とともに榎本武揚の艦隊へ合流した。
明治元年(1868年)8月19日、榎本艦隊とともに品川沖を脱走し仙台寒風沢へ上陸、会津救援を図ったが、大鳥圭介らの敗走により目的を達せず、再び軍艦に戻り箱館戦争へ参加した。寺沢は鷲ノ木に上陸後、五稜郭へ入り、転戦すること18回に及んだ。
翌明治2年(1869年)5月15日の降伏後は青森正覚寺に拘禁され、のちに函館台場馬小屋に抑留された。その後死一等を減じられ、明治3年(1870年)に静岡藩へ引き渡された。
明治4年(1871年)、上京して榎本武揚の処分軽減のために奔走し、榎本の恩赦後はその推薦により開拓使に出仕した。続いて内務省・太政官・逓信省などの官職を歴任し、これはすべて榎本の推挙によるものとされる。明治6年には北海道三角測量のために渡道。明治12年8月内務省地理局時代には測量隊として梨羽起時らとともに史上初となる赤石岳に登頂したとされる。
寺沢は太政官勤務中に朝鮮人改革派の金玉均と親交を結び、築地の旅館で実学を伝えるなど深い交流を持った。金玉均追放時には身を呈して庇ったともいわれ、寺沢自身も嫌疑を受けたが、榎本の弁明によって無事であった。明治維新の後に自分の一生を回顧した『一生一話』は幕府側からする戊辰戦争体験記として重要な記録である。
また、満洲鉄道幹事・食堂車営業所支配人を務めた寺沢啻叡は寺沢正明の長男である。