対馬の戦い (1274年)
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1269年初頭、70人からなる高麗人およびモンゴル人の使節団が再び対馬に到着し、ハーンの書簡に対する日本側の回答を要求した。朝廷は返書を望んだが、鎌倉幕府がこれを退けた。ハーンの要求に対する強硬な返答が起草されたものの、最終的には送付されなかった。[1] 元の船は日本側の抵抗を受けて日本海域から撤退を余儀なくされたが、その退却途中で対馬の漁民2名を捕虜とした。捕虜はクビライ・ハーンの宮廷に送られ、1269年8月に高麗の使節とともに日本へ送り返され、外交交渉再開の一環とされた。[2]
1274年、クビライ・ハーンは高麗の港湾に船舶を集結させるよう命じた。現代の推定では、最大で約900隻が集められ、最大4万人の兵士を輸送した可能性があるとされる。[3] 他の記録では、実際に出航した兵力として、モンゴル人・漢人・高麗人兵士約23,000人と、約6,700人の船員がホル・トゥン、洪茶丘、劉復亨の指揮下にあり、これらの部隊は総称して「三翼軍」と呼ばれていたとされる。[4] 兵力の大半はモンゴル人で、高麗人および漢人の支援部隊がこれに加わっていた。クビライは1274年夏の出航を命じていたが、実際に艦隊が出航したのは10月3日で、現在の釜山付近の合浦を出発し、朝鮮海峡を渡った。[4] この遠征が本格的な侵攻として計画されたのか、それとも偵察行動であったのかは明確ではない。[3] 1274年の侵攻は、日本征服を目的としたものというよりも、主として探りを入れる作戦であった可能性がある。[5] しかし、元軍の行動は侵攻と呼ぶに十分な規模と強度を備えていた。最初の目標として選ばれたのが対馬島であり、この島は朝鮮半島南岸と九州のほぼ中間に位置している。[3]