尊円法親王
鎌倉時代から南北朝時代の法親王。青蓮院十七世門跡、四天王寺別当、天台座主。伏見天皇の第五皇子(第六皇子とも)。母は三善衡子(三善俊衡の娘、掌侍、播磨内侍)。
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略歴
延慶元年(1308年)に青蓮院に入り、延慶3年(1310年)に親王宣下を受ける。延慶4年(1311年)法門に入り、名を尊円と改めて青蓮院門跡に就任した。しかし、当時の青蓮院は門跡の地位を巡って2つに割れており、しかも大覚寺統が亀山法皇の皇子でもう一方の派閥に属する慈道法親王を推していたことから紛争に発展している。
正和3年(1314年)から元徳元年(1329年)まで門跡管領を止められて慈道が門主とされたが、鎌倉幕府の働きかけによって出された後醍醐天皇の綸旨によって再び門主となり、元弘元年(1331年)には天台座主に任じられている。この前後4回にわたり天台座主となり、その間四天王寺別当を歴任している。
後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼすと、尊円の門跡管領が止められて再び慈道が門主となるが、建武2年(1335年)になって後醍醐天皇の勅裁による仲介で慈道が尊円を弟子として迎えて門跡の地位を譲ることになり、その後の建武の乱による後醍醐天皇の吉野山退去にもかかわらず慈道が約束通りに尊円を後継者として青蓮院やその管下の寺院を譲渡したため、鎌倉時代初期から続いた青蓮院の内紛に終止符が打たれた[2]。