小久保喜七

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生年月日 1865年4月17日
慶應元年3月22日
没年月日 (1939-12-14) 1939年12月14日(74歳没)
所属政党自由党→)
立憲政友会→)
交友倶楽部
小久保 喜七
こくぼ きしち
生年月日 1865年4月17日
慶應元年3月22日
出生地 江戸幕府下総国猿島郡(現:茨城県古河市
没年月日 (1939-12-14) 1939年12月14日(74歳没)
所属政党自由党→)
立憲政友会→)
交友倶楽部
選挙区 勅選議員
在任期間 1928年10月18日 - 1939年12月14日
選挙区茨城県郡部)
茨城県10区
当選回数 6回
在任期間 1908年5月15日 - 1928年
在任期間 1892年 - 1896年
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小久保 喜七(こくぼ きしち[1]1865年4月17日慶応元年3月22日[2] - 1939年昭和14年)12月14日[1][3][4])は、日本の政治家、自由民権家[3]従四位勲二等[1]。中田文武館館長[5]城南[6][7]。族籍は茨城県平民[2][8]

下総国猿島郡[3](のちの茨城県猿島郡新郷村中田[9]、現在の茨城県古河市)出身。小久保藤吉の長男[6][8]。幼い頃に母を失い、祖母に養われた[5]栃木県佐野町で先生に就いて漢学を学んだ[9]

1879年明治12年)、郷里に帰り民権自由の説を唱え[5]自由民権運動に投じる。1883年(明治16年)春に有終会を組織し、又五州志士舟遊会を起し推されて幹事となる[9]。さらに自由党結成大会に出席した[9]。中田文武館を設立し自ら館長となり大に壮士を養う[5]

1884年(明治17年)には加波山事件1885年(明治18年)には大阪事件で逮捕されたが無罪となる[3]大隈重信外務大臣の条約改正案に反対し、1889年(明治22年)には大隈重信外務大臣襲撃事件で検挙投獄されたが無罪となる[3]

自由党本部幹事に推され、立憲自由党の結党式準備委員として尽瘁した[9]1890年(明治23年)、立憲自由党結党式挙行の当日刺客に刺された[9]1892年(明治25年)、茨城県会議員に当選し、副議長に推された[9]。後に自由党を離党し、大井憲太郎神鞭知常佐々友房らとともに非内地雑居論を主張した[9]

1895年(明治28年)、茨城県会議長不信任案を提出するが、該案を却下して紛擾を惹起し、さらに臨時県会に於いて副議長不信任案を提出される[9]。再び県会議員に当選したが、議長選挙に敗れて、直ちに議員を辞職した[9]1898年(明治31年)、台湾で台湾通信社を創設した[9]1900年(明治33年)、帰国した[9]1901年(明治34年)、立憲政友会に入党した[9]

1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙に茨城県郡部より出馬し、当選[8]。以後、6期にわたって務めた。その間、政友会系の自由通信社の社長になり、原内閣では逓信参事官を務めた。

1928年(昭和3年)10月18日、貴族院議員に勅任され[10][11]交友倶楽部に所属[1]、死去するまで在職した[12]。また小田原急行鉄道取締役[1]大東文化協会の顧問なども務めた[13]

人物

『実業の世界』からの「あなたは25歳の頃に何をしていたか。その当時の収入及び生活状態はどうだったか」という問いに小久保は「大同協和会の幹事に推さる。大隈外務大臣の条約改正に反対し、来島氏が伯を傷くるや、これが連累として獄に下る。定まりたる収入一もなし」と回答している[14]

自由党時代から自身の白い顔を自慢中の自慢としていた[7]。著書に『城南片鱗』、『城南詩鈔』などがある[3]。趣味は詩文[6]。住所は東京市四谷区右京町[2]、大森区大森[6]

その他

2019年現在、森ビルが中心となって再開発を行なっている麻布我善坊谷(現在の住所は麻布台)の六本木側の入口にある、日露戦争時に日本のスパイとして殉職した横川省三記念公園には、小久保が「天地知心」と記した国旗掲揚塔がある。なお、塔の碑文の小久保喜七の「喜」は「㐂」となっている。また、同地は前述した通り、再開発真っ只中であるため、この塔が新しくできた公園に移転されるかは不明。

家族・親族

脚注

参考文献

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