小出粲
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江戸の生まれ。浜田藩士松田三郎兵衛の二男として生まれ、のち美作国鶴田藩士小出修吉の養子となり家督を相続する[1]。幼年期に石見の浜田藩に仕えた。後に歌学に転じ、島原藩士瀬戸久敬の門人となる[2]。同門に伊東祐命。維新後、1877年(明治10年)に宮内省(現在の宮内庁)に入省し、文学御用係、御歌所の寄人や主事等を歴任した。歌集の編纂に携わり、後に絵画や、工芸もよくした。
高崎正風や鈴木重嶺などとともに、後に旧派和歌と称される御歌所派の代表的歌人であった。山縣有朋主宰の歌会「常磐会」で選者を担当し、幹事であった森鷗外と親交を持った[2]。1898年(明治31年)2月7日には新聞「日本」に「新自讃歌」を寄稿。これに対して伊藤左千夫(当時の号は春園)が批判文「非新自讃歌論」を投書し、以降紙面上で論争を闘わせた。この論争は、正岡子規が「歌よみに与ふる書」を執筆する意欲を刺激することになった[3]。
中島歌子の歌塾「萩の舎」の指導的立場にあり、そこに通っていた樋口一葉を歌人として高く評価して[2]、小説をやめて歌道に専心するよう勧めていた。森鷗外の句「おもしろきおやぢと春の連れてゆく」は小出への追悼句であり、「おもしろきおやぢ」とは小出のことである[2]。墓所は荒川区善性寺。
著書
- 『くちなし(久知那志)の花』- 1894年(明治24年)刊行。3分冊からなる歌集。
- 『くちなしの露』
- 『あさぎぬ』