小原義之
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1990年3月3日に栗東・増本豊厩舎からデビューし、中京第1競走アラブ4歳以上400万下・アップワン(13頭中8着)で初騎乗[1]を果たすと、同日の第5競走4歳以上500万下をルイテイトで逃げ切って初勝利[2]を挙げた。夏は北海道シリーズに参戦し、札幌記念・イチアヤヒデ(14頭中11着)で重賞初騎乗を果たすと、セイユウ記念ではハクサンツバメで2着に逃げ粘る[3]。5月19日の阪神では初の1日2勝と初の特別勝ち[4]、10月13日の京都では初の1日3勝[4]、12月15日・16日の京都では初の2日連続勝利[5]を挙げるなど、初年度から2桁勝利の23勝[6]をマークするが、20勝台は同年が唯一でキャリアハイ[6]となった。
1993年まで4年連続2桁勝利を記録し、同年からはフリーとなり、ホクセイアンバーと共にローカルの中長距離戦で活躍。昇級2戦目の明石特別(900万下)を8馬身差で圧勝すると、夏は札幌で降級初戦の支笏湖特別(900万下)を2馬身差で快勝。続く札幌記念は7着、小倉記念では6着に敗れる。小倉記念は勝負所の不利が大きく、続く朝日チャレンジカップ4着で、重賞でも好勝負できる能力があることを証明[7]。1994年の小倉記念では「無理せず中団から」という指示を父・小原伊佐美調教師から受け、落ち着いた騎乗振りで指示通りに中団を追走。3コーナーでうまく内に入ると、勝負所を迎えて反応が鈍くなりかけたホクセイアンバーを叱咤激励して直線へと入る[7]。最内にホクセイアンバー、中にメモリータイヨウ、外にイブキファイブワンの激しい追い比べとなり、ホクセイアンバーは態勢的に苦しくなるが、馬体を併せてからの強さという真骨頂を見せる[7]。イブキファイブワンも最後まで懸命に追いすがったが、ホクセイアンバーがアタマ差のリードを守り切り、人馬共に重賞初制覇を飾る。小原はホクセイアンバーの勝負根性を信じ、落ち着いた騎乗で直線の叩き合いをしのぎ切った[7]。
1996年からは小原厩舎に所属し、札幌記念ではサンデーサイレンスの初年度産駒[8]ダイタクサージャンでマーベラスサンデー・マイヨジョンヌに次ぐ3着[9]に入るが、同年唯一の重賞騎乗[10]となった。
1997年から2001年には5年連続2桁勝利[6]を記録し、1997年には5月19日の笠松第8競走初夏特別・ダイゴパワー(10頭中9着)て地方初騎乗[11] [12]を果たす。9月14日の札幌第6競走4歳以上500万下をミカマンリーで逃げ切り、中央通算100勝を達成[13]。
1998年のウインターステークスでは9頭中8番人気のウッディーナイスでマチカネワラウカド・エムアイブランに次ぐ3着[14]に入り、1999年にはダイヤモンドステークスをタマモクロス産駒タマモイナズマで逃げ切って[15]5年ぶりの重賞制覇[16]を飾ると、同年の天皇賞(春)でGI初騎乗[16]を果たす。
2001年には5月9日の名古屋第10競走名古屋チャレンジカップジュピター賞・ユーコーフォエバーで管理する父・伊佐美と共に地方初勝利 [11] [12] [17] [18]を挙げ、京都大賞典ではタマモクロス産駒ホワイトハピネス[19]でステイゴールド失格による繰り上がりで3着[20]となるが、同年の11勝が自身最後の2桁勝利[6]となった。
2002年には小倉大賞典を16頭中13番人気のタマモヒビキで制し3年ぶりの重賞制覇[21]を飾り、札幌2歳ステークスではタイキシャトルの初年度産駒[22]テイエムリキサンでサクラプレジデントに3/4差迫る2着[23]とした。
2003年からはエアジハード産駒ナナヨーヒマワリとコンビを組み、明け3歳の2004年1月にダート2戦目で初勝利、秋には阪神ダート1400mで2勝目をマーク[24]。コンスタントに走り続けても勝利は遠く、3勝目は5歳になった2006年で通算33戦目にして8月の札幌ダート1700mであった[24]。6歳になった2007年4月の京都・桃山特別(1000万下)を勝利して準オープンに昇級し、6戦続けて掲示板を確保[24]。2008年には46戦目となった2月の北山ステークスを勝利し[24]、重賞初挑戦のマーチステークス[24]では道中最後方の位置から3~4コーナーで馬群の外を駆け上がり、直線でも鮮やかな末脚を披露すると、先に抜け出したマコトスパルビエロを差し切る[25]。次位をコンマ9秒も凌ぐ上がり37秒0を駆使する鮮やかな逆転劇で7年ぶりの重賞制覇を成し遂げ、勝利直後は大仕事を成し遂げた実感がなかったが、時間が経つ内に喜びは大きく膨らみ、中山からの帰りは電車に乗って東京駅へと行くところをタクシーを奮発[26]。栗東へ戻ると、妻や子供は泊まりがけで外出中であったため、夕食はコンビニ弁当で済ませた[26]。
2008年11月23日の京都第5競走メイクデビュー京都2歳新馬でサイタに騎乗するが、レース中に転倒したセイウンアレースに接触して落馬[27]。サイタの後ろを走っていたリベラルランスルーに蹴られ、その後の診断で肝損傷・肺挫傷の重傷を負った[27]。約1ヶ月の入院[28]を経て調教騎乗に復帰すると、2009年1月11日から1鞍限定でレースへの騎乗を再開し、驚異の回復力を見せた[29]。3月28日の阪神第1競走3歳未勝利を15頭中10番人気のマルサンメインで逃げ切って199勝目を挙げ、中央通算200勝に王手をかけるも、結局これが最後の勝利となった[30]。6月2日から同24日にかけては研修でイギリス・アイルランドに行ったが[31]、11月1日の京都第10競走西陣ステークス・アートオブウォー(16頭中5着)を最後に騎乗もなくなり[30]、12月20日をもって現役を引退[32]。
引退後は小原厩舎の調教助手に転身し[32]、2014年に伊佐美が勇退し、新たに開業した石橋守厩舎に移籍。芹沢純一と共に調教専門の調教助手を務めている[33]。