鄭州市の西北20kmの石仏郷小双橋村の西南で発見された遺跡である。遺跡の面積は15万平方mにおよび、基壇・青銅器鋳造遺跡・祭祀遺跡・窖蔵・灰坑・竈・溝などが発見され、土器・青銅器・石器・骨角器・貝器などの遺物も豊富に出土している。建築の基壇では、柱穴や暗礎が確認されている。また多くの祭祀坑が発見されているが、人身を埋めたものと動物の犠牲を埋めたものの2種類がある。
この遺跡では、大量の孔雀石・銅鉱滓・焼土粒・鋳造炉壁残骸が発見されている。また鋳造廃棄物坑や陶笵破片も発見されている。
土器は夾砂灰陶と泥質灰陶が主で、灰色のものが多く、黒皮陶も一定量ある。紋様は縄紋が主で、粗縄紋が多く、細縄紋は少ない。主要な器形には、鼓腹円筒高襠の鬲、鼓腹短圏足の簋、浅盤高柄の仮腹豆、中柱盆、擂鉢、長流無尾の爵、大口尊、深腹円底盆、浅腹円底盆などがあった。青銅器は多くが破片で、建築部材・鼎・爵・斝・戈・鏃・刀・鉤・簪・円形泡が確認されている。
この遺跡から出土する土器には「朱文符号」の書かれたものがある。朱文符号はすべて単体で書かれ、文字よりは符号に近いものであるが、文字と考えれば「二」「三」「帚」「匕」「阜」「旬」「東」「天」「父」と読めるものがあり、殷後期に出現する甲骨文字との関係が注目されている。
小双橋遺跡の年代は殷中期の前半で、この文化は小双橋期と名づけられている。出土遺物に対する放射性炭素年代測定結果が発表されているが、出土した頭骨の樹輪校正年代は紀元前1435年 - 紀元前1412年であった。
またこの遺跡に関しては、『古本竹書紀年』や『史記』殷本紀などにみられる仲丁の都「隞」「囂」に当てはめる説がある。