小国重頼
From Wikipedia, the free encyclopedia
天正元年(1573年)の軍役帳に重頼が当主となっている。上杉謙信に仕え、武勇に誉れがあったというが天正8年(1580年)には石見守(頼恭)の名前が天神山城主として登場[注釈 1]。
天正10年(1582年)小国氏の家中で内紛があった事もあり、上杉景勝の命により直江兼続の実弟で樋口兼豊の次男・与七が養子となって、小国実頼と名乗る事になる。当時、御館の乱の恩賞問題がこじれて上杉氏から離反した新発田重家が信濃川水運・海上交通の要所である蒲原津・沼垂津・新潟津の3つの港を掌握していたため、景勝の中越地方支配にとっては大きな打撃であった。このため、中越地方の名家で信濃川に通じる矢川流域を支配する小国氏の掌握と安定化を景勝が重視していたとみられている[1][注釈 2]。