向嶽寺
室町時代には、都留郡(郡内地方)において平姓小山田氏の足跡が見られ、『鎌倉大草紙』や武田家諸系図では「平姓小山田弥二郎」の娘が甲斐守護・武田信満に嫁いだと記しており、戦国期の小山田氏当主と同様に平姓で「弥」ではじまる仮名を用いていることが注目される[5]。
文明6年(1474年)に郡内の用津院(都留市金井)の開基となり、寺領寄進を行なっている[6]。
明応年間に甲斐国守護・信縄とその父・信昌と弟・油川信恵の間で抗争が発生すると、信長は姻戚関係に基づき信昌方に味方したとみられ、これに乗じて都留郡田原郷(山梨県都留市田原)の向嶽寺(甲州市塩山上於曽)領を横領した[4]。明応7年(1498年)に信縄・信昌間で和睦が成立すると、信長は明応8年(1499年)9月に横領分を向嶽寺に還付したという[7][4]。この時点で平姓を称していることが確認される[8]。
没年は不明だが、森嶋本『甲斐国志草稿』は実名不詳の人物として「耕雲院公大禅定門」を載せ忌日を9日と伝えており、これは信長と考えられている[9]。
永正17年(1520年)には現在の大月市賑岡町に所在する円通寺(現在は廃寺)の棟札の奉加者に藤原長吉・内匠助長吉・奥秋長吉・志村長吉の四名の人物が記され、いずれも「長」の一字を持っているため、信長からの偏諱である可能性が指摘されている[10]。