小島省斎
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生涯
文化元年(1804年)、丹波国氷上郡佐治(現在の兵庫県丹波市青垣町佐治)に生まれた。省斎は号で、本名は慎・駟、字は思之・伯輿、通称は四郎兵衛や忠太などと呼ばれた[6]。生家は煙草屋で[3]、自身もたばこを刻んで売りさばいていた[7]。省斎は幼い頃からたいそう利発なことで知られ、西往寺の住職は、出家をするよう促したが、従わなかった。 結婚後に京都の猪飼敬所の門に入り、貧しい苦学生時代を送った。母親が病気になったことをきっかけに佐治に戻り、昼は家業に励み、夜は勉学に勤しんだ。
帰郷後の文政12年(1829年)に私塾「竹西亭」を開設する[3]。敬所だけでなく、但馬聖人と呼ばれた池田草庵とも親しく交わった。やがて「丹波聖人」と異名をとり、その名声を聞きつけた柏原藩6代藩主織田信古に登用され、以後10代藩主織田信親の代まで4代にわたって重用されたが[3]、8代藩主の織田信敬にとりわけ重んじられた。嘉永3年(1850年)に藩校の又新館創設に貢献し、嘉永4年(1851年)に信敬に五か条の建白書を提出し、その末文で「学制を厳にする」と教育の重要性を説いたことで知られる[3]。天保13年(1842年)以後、2か月おきに殿中で教鞭をとり、藩主や藩士に対して5日間の講義を行った[3]。
