小島貞知
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野辺地戦争
戦闘の経過については野辺地戦争#経過を参照。
盛岡藩士小原末造と一騎討ちになり、南部方の雑兵が丸太棒により足払いをして、助太刀し、戦死した。戦死の際に着用していた兜はその雑兵の手に渡ったが、その後故あって野辺地八幡宮に奉納された。なお、一説には退却しようとしていた左近を末造が大声で呼び止め、剣術に優れていた左近が応戦し、末造は右手を負傷したが、左近の額を斬りつけた。そして、逃走しようとする左近の脇腹を刺し、仕留めたともいう。また一説に、初め盛岡藩の倉館喜助と戦い、喜助が銃を捨て、逃走、末造が討ち取ったともいう。戦死の際の服装は、猩猩緋の陣羽織、藤色織物の小袴、白羽二重の具足下着、陣笠を着用していたという。野辺地の野辺地戦争戦死者の墓所に他の戦死者26名と共に葬られた。
最古のねぷた絵
家族
義父小島嘉兵衛貞勝は元々盛岡藩の刀工であった。相馬大作事件で師匠の大吉と共に襲撃を弘前藩に密告した。その功により「小島」の姓が与えられ(先祖は下野国佐野浪人で元々小島姓であった)、名前も喜七より嘉兵衛に改名し2百石で津軽藩に仕官した。ただ、彼は南部藩にいたときから、南部藩主と同じ字があることから嘉兵衛と名乗っている。嘉兵衛の娘婿が貞知である。嘉兵衛の祖父は関脇宮城野錦之助である[3]。
孫の小島晋之進は1884年(明治16年)青森県師範学校を卒業後、1885年(明治17年)には同校舎長、1886年(明治19年)に同校教導、1897年(明治30年)に故郷に戻った後、第五十九銀行取締役、津軽銀行監査役を歴任する[4]。