小川は近江出身の武士で、当初は浅井長政に仕えていた。その後主家滅亡後に明智光秀に属し、本能寺の変後は羽柴秀吉に帰属した。秀吉麾下では羽柴秀長の与力となり、秀長が大和国・紀伊国・和泉国の三国100万石を領して大和郡山城に入ると、その家老の一人に抜擢された。転々と主を変えた経歴から、同じく秀長家臣の藤堂高虎と似た経歴を持つと評される。秀長家中には三家老があり、桑山重晴(または横浜一庵)・羽田正親・小川下野守の三名であったと伝わる。
領地は3万5000石(あるいは1万5000石とも)で、郡山城下の小川町(現・奈良県大和郡山市小川町)がその邸跡と伝えられている。
『太閤記』によれば天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの後、織田信孝方は稲葉山城・瑞龍寺山城など三城に籠城した。これを攻めたのが秀吉方の羽柴秀長軍3万余であり、小川下野守はその家臣として参陣した。攻囲の最中、4月25日の夜、小川下野守は馬を駆って城近くに寄せ、「城中の兵どもよく承れ、去る21日柴田権六を生捕り、今24日北ノ庄落城し討ち取ったり、今は誰を頼みに籠城せるや」と大音声で呼ばわった。これにより城内は騒然となり、探りを出すと事実と知れて兵の士気は著しく低下した。結果、信孝は岐阜城を開城し、4日後の4月29日に自害したと伝わる。この機略をもって秀長軍の勝利に貢献したとされる。
3万5000石を賜った後は歴史から完全に姿を消してしまうが、歴史学者の本郷和人は、小川下野守について、前歴の不詳なことが多い小川祐忠と同一人物であった可能性が高いのではないかと指摘している。