小松隆
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ハーバード大学から浅野財閥へ

さらにハーバード大学で国際法を学び修士号を得て1912年(明治45年)卒業した。卒業式では卒業生代表として演説したが、これは日本人では初めてだった。大学図書館でたまたま浅野良三(浅野財閥総帥浅野総一郎の次男)に出会い終生の友となった。帰国後は浅野良三の親戚である穂積家に身を寄せ、1913年(大正2年)12月に浅野財閥の東洋汽船に入社し[5]、浅野総一郎社長の秘書になった[4][6][7]。1920年には、東洋汽船の子会社で、浅野良三が社長をしていた大正活動写真(大正活映)の取締役を務めた[8][9]。1922年(大正11年)6月から1926年(大正15年)10月まで東洋汽船のサンフランシスコ所長を務めた。1928年(昭和3年)帰国し、1929年(昭和4年)から浅野財閥の浅野造船所に勤務したが、1939年(昭和14年)に、鶴見製鉄造船(浅野造船所が改称したもの)と日本鋼管が合併したので、日本鋼管の常務取締役に就任した[5]。それと並行して、浅野総一郎の顧問として、セメント・水力発電・埋立などの事業にに関与した。1937年(昭和12年)頃は、鶴見製鉄造船の常務取締役、東洋紙袋と東洋再製袋の取締役、浅野カーリットの監査役を兼務した[4][6]。
外交の舞台で活躍
1921年(大正10年)9月から1922年(大正11年)2月末まで、ワシントン軍縮会議で加藤友三郎海軍大将の通訳を務めた[10][6][7]。 1925年(大正14年)第一回IPRホノルル会議の日本代表として演説した[11]。1927年(昭和2年)4月から、ジュネーブ軍縮会議で斎藤実海軍大将の通訳を務めた。その随員の小林躋造海軍中将は、後に日米開戦論を批判する手紙を小松に送った[10][6][7] 。1929年(昭和4年)にはIPR京都会議の準備と運営に奔走した[11]。 1930年(昭和5年)にベルリン万国動力会議に出席、1934年6月には使用者代表顧問としてジュネーブの第18回ILO会議に出席した[12]。1931年(昭和6年)満州事変の直後に米国の対日感情が悪化したので、外務省の命により樺山愛輔と渡米し、アダムス海軍長官、キャッスル元駐日大使、ラモント商務長官、ヘンリー・フォード、連邦準備制度理事会のメイヤー、クーリッジ元大統領、スティムソン国務長官などと会談して日本の対中方針を説明し満州事変に理解を求めたが無駄だった[13][12]。1932年(昭和7年)米国で冊子を出版し、日本は無秩序な満州に秩序をもたらして近代的な国にすると主張して、満州事変を正当化した[14][15]。1933年(昭和8年)の夏にルーズベルト大統領(ハーバード卒)は、小松隆と話し合った、そして、浅野良三がワシントンDCを訪問する際に、ホワイトハウスに来るように招いた[16]。1934年(昭和9年)12月頃から、多忙な樺山の代わりに、実質的に日米協会のトップとなって、日米関係を改善しようと日系二世との民間交流を促進した。1937年7月に第二次上海事変が勃発し、同年12月12日に日本軍機が誤って米国軍艦パネー号を撃沈するという事件(パネー号事件)が起きた。小松はその8日後に日米協会でパネー号評議会を結成して、慰問状を作成し弔慰金を募集し、翌年3月に弔慰金約三万円をグルー大使に渡した。1938年(昭和13年)7月の日米学生会議の後に、日米協会が米国人学生を引率して満州と朝鮮を案内し、日本の大陸政策を視察させて理解を得ようとした。しかし、同月に米国は日米通商航海条約を破棄し、日米関係の破局が決定的になった。1940年(昭和15年)に小松は政府に対して対米非戦論を述べたところ、要注意人物とみなされて、公的に話すことを禁止された[17]。1941年(昭和16年)11月にハル・ノートが提示されると日米協会を休会にした[18]。
