旧幕臣。明治維新後に新政府の海軍へ出仕した。明治3年には兵学寮出仕、明治5年(1872年)、海軍兵学寮の兵学大助教に任じられ、九等出仕となる。同年2月には、石川嶋(中央区佃)において実施された大砲試験に際し、福村周義らとともに兵学寮の砲術掛として派遣された[3]。
同年、小林翹は蒸気艦龍驤・日進による英国航海において、砲術担当将校として選抜されている。また兵学寮内では、語学に熟達した教官候補の一人として評価されており、外国人教師来着に先立つ明治6年(1873年)2月の内部語学能力試験計画においても、対象者として名を連ねた[4]。
明治6年4月には海軍大尉に昇進した。同年、米国視察中に米国の秘密水雷製造の実態を知った川村純義の意向により、福村周義少佐とともに、海軍御雇外国人教師ダグラス少佐の下で水雷伝習に従事した。
明治7年(1874年)9月20日、水雷製造局が設置されると、兵学寮教授科所属のまま水雷製造局兼務を命じられた。水雷は「秘密に属する」兵器とされたため、同局の実態はほとんど史料に残らず、同局も明治8年(1875年)2月に廃止されている。その後の詳細な経歴は明らかでない。