備中国新見荘の領家職をめぐる相論の中心人物の1人として史料に現れる。新見荘の領家職は、開発領主である大中臣孝正から小槻氏に寄進されて以来、代々家職として継承されてきた。しかし、小槻淳方の没後、淳方の子(名称不明)の後家である大蔵卿局が自身に領家職を譲ることを淳方に強要し、さらに淳方の血縁ではない自身の連れ子(信光の異父兄)である信尊へ職を譲り渡した。信光はこの知行の不当性を訴え、一族の正統性を主張した[2]。
嘉暦元年(1326年)8月、信光は子の小槻信親、および一族の小槻匡遠とともに、信尊を相手取って記録所へ訴状を提出した。信光らは、信尊が小槻氏の血を引かない「他姓」の身でありながら家職を奪ったことを強く批判した[3]。
この相論は長期化したものの、元弘の乱を経て後醍醐天皇による建武の新政が始まると、大きな転換を迎える。建武3年(1336年)8月21日、後醍醐天皇は記録所の決断に基づき、綸旨を下した。これにより、信尊側の知行は不当とされ、小槻氏の正統な継承者として小槻匡遠に新見荘領家職が安堵された。信光自身ではなく匡遠に安堵されたのは、匡遠が当時、大宮流の小槻冬直の跡を受けて小槻氏の氏長者的存在である官務(左大史)の地位にあったためと考えられる。この結果、新見荘は法的な手続きを経て、小槻匡遠を代表とする壬生流小槻氏の知行として正式に確定した[4]。
しかし、敗訴した信尊はその後も新見九郎貞直(地頭方)と結託して抵抗を続け、南北朝の混乱に乗じて知行を妨害した。このため、匡遠やその後の子孫である小槻兼治らによる相論は応安年間(1368年 - 1375年)まで半世紀以上にわたって続くこととなった[5]。