小田仁二郎

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小田 仁二郎(おだ じんじろう、1910年12月8日 - 1979年5月21日)は、日本の小説家

山形県南陽市生まれ。旧制長井中学在学時に大竹俊雄らと同人雑誌『火花』を創刊。早稲田文学仏文科に進み、在学中は野田誠三らと「ヴァリエテ」を刊行、中原中也や山沢民喜等の同人「紀元」に参加。卒業後は都新聞に勤め、文化部文芸欄を担当するが、1941年退社[1]。戦後になって丹羽文雄の『文学者』に参加。1948年に真善美社の「アプレゲール叢書」の一冊として刊行された「触手」で文壇の一部からは評価されたが、その難解さから商業誌には迎えられなかった。1952年「昆虫系」で芥川賞候補、53年「からかさ神」で芥川賞候補、54年「塔の沢」で直木賞候補。またこの頃、『文学者』同人の瀬戸内晴美と知り合い、後に同棲同然となる。

1956年に『文学者』が解散すると、同人誌『Z』を主宰し、瀬戸内、吉村昭、吉井徹郎、宇野義雄らが参加、後に北原節子(津村節子)が参加する。瀬戸内が『新潮』の同人雑誌特集号に書いた「女子大生・曲愛玲」が、1957年の新潮社同人雑誌賞を受賞すると、『Z』も注目を集めるようになる。『Z』は3か月ごとに定期的に発行され、吉村と北原が次第に認められるようになった。『Z』に連載していた時代小説「写楽」を認められ、小田は1958年5月から『週刊新潮』で「流戒十郎うき世草子」を連載し、これにより出版社からの出版の申し入れが来るようになった。同年秋に『Z』は廃刊する。

その後瀬戸内、鈴木晴夫、宇野義雄と新しい同人誌を発行し、これは雑誌名も表紙もないという風変わりなものだった。これに小田は「写楽」の続編「北斎最後の事件」を書き、瀬戸内の書いた「東慶寺」は後の長編「田村俊子」の序章となった。1959年「蚤芝居」で時事文学賞受賞。

1965年に山形新聞へ紀行文「御所山」を発表。ついで同紙へ1970年から1973年にかけ自伝的作品「見えなかったもの」(260回)、「続見えなかったもの」(149回)を連載[1]

『背中と腹』(1965年)、『静かな生のなかで』(1966年)などで小田独自の世界への回帰を期待されたが、1979年病没[1]。小田の死去後、瀬戸内はかつての同人誌仲間たちと、小田を特集する同人誌『JiN』を刊行した[2]

著書

参考文献

脚注

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