一時期水原氏の養子となるが、間もなく本姓に復している[1]。江戸で安積艮斎・佐藤一斎・大橋訥庵らに師事する[1]。万延元年(1860年)11月6日に兄で安志藩主を継いでいた貞幹(忠幹)が小倉藩主家を継ぐと、兄によって文久元年(1861年)8月に小倉へ招かれ、藩の政治顧問として「御政事御世話」に就く。同藩家老の島村志津摩や小宮民部と藩政を巡って対立し、文久3年(1863年)5月に島村志津摩は江戸の台場警備に左遷された。
同年9月、敬二郎は職を辞して江戸に赴くことになったが、同月14日に死去した。弓の稽古中に弦で左手を切り破傷風になったという説や、手の動脈を切ったとする説もある[1]。
元治元年(1864年)2月に島村志津摩は小倉に呼び戻された。
三子があり、次男敬信以外は夭折した[1]。
敬信は1912年に母が七十歳になっても壮健であることを報告した手紙を楠本碩水に送っている[1]。