小見真観寺古墳
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| 小見真観寺古墳 | |
|---|---|
|
墳丘 (左に前方部、右に後円部・真観寺本堂) | |
| 所属 | 小見古墳群 |
| 所在地 |
埼玉県行田市小見1124 (真観寺境内) |
| 位置 | 北緯36度9分34.77秒 東経139度28分35.65秒 / 北緯36.1596583度 東経139.4765694度座標: 北緯36度9分34.77秒 東経139度28分35.65秒 / 北緯36.1596583度 東経139.4765694度 |
| 形状 | 前方後円墳 |
| 規模 |
墳丘長102m 高さ8m(後円部) |
| 埋葬施設 |
横穴式石室1基(内部に箱式石棺?) 箱式石棺1基 |
| 出土品 | 銅鋺・装飾付大刀・金環・銀装刀子・甲冑・鉄鏃ほか |
| 築造時期 | 6世紀末-7世紀初頭 |
| 史跡 | 国の史跡「小見真観寺古墳」 |
| 地図 |
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小見真観寺古墳(おみしんかんじこふん)は、埼玉県行田市小見にある古墳。形状は前方後円墳。小見古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。
埼玉県北部、星川西岸の加須低地の南東縁辺部(標高19メートル)に築造された大型前方後円墳である[1]。一帯に分布する小見古墳群のうちでは中心的な盟主墳になる。現在は真観寺境内の本堂背後に所在する。寛永11年(1634年)に石室が発見されたのち、1880年(明治13年)に新たに石棺が発見されて副葬品が出土している。
墳形は前方後円形で、前方部を北西方向に向ける。墳丘外表における埴輪の有無は不明[1]。墳丘周囲における周溝の様相も詳らかでないが、前方部北側における調査の際に溝が確認されている[1]。埋葬施設は後円部における横穴式石室(第1主体部)・箱式石棺(第2主体部)各1基である。いずれも緑泥片岩の板石を組み合わせて構築されており、第1主体部の副葬品は詳らかでないが、第2主体部からは人骨や銅鋺・装飾付大刀のほか金環・銀装刀子・甲冑・鉄鏃など多数の副葬品が出土している。
築造時期は、古墳時代後期-終末期の6世紀末-7世紀初頭頃と推定される[1]。近在の埼玉古墳群では将軍山古墳をもって大型前方後円墳の築造を終えており[2]、行田市内では最後の前方後円墳として位置づけられるとともに、当該時期としては埼玉県内で最大規模の古墳として重要視される[1]。被葬者としては武蔵国造との関係が推測される[1]。
遺跡歴
墳丘
埋葬施設
埋葬施設としては、後円部において横穴式石室1基(第1主体部)、箱式石棺1基(第2主体部)の2基が構築されている。
第1主体部(後円部石室)


第1主体部(後円部石室)は、後円部南側における横穴式石室で、南南西方向に開口する。玄室・前室からなる複室構造の石室である。石室の規模は次の通り[1]。
- 石室全長:現存5.42メートル
- 玄室:長さ2.62メートル、幅2.33メートル、高さ2.02メートル
- 玄門:幅0.68メートル
- 前室:長さ2.41メートル、幅2.24メートル、高さ2.33メートル
石室の石材は緑泥片岩の板石。玄門は板石1枚を刳り抜いて構築される。玄室・前室の床面は緑泥片岩の1枚石であり、特に玄室の床面には奥壁に平行する溝4本が認められることから、箱式石棺を造り付けたとみられる。前室の前には羨道が付設されていたとみられるが、現在は失われている[1]。
寛永11年(1634年)に露出・発見されているが、副葬品は明らかでない。
- 玄室(奥壁方向)
- 玄室(開口部方向)
- 前室(開口部方向)
- 前室(玄室方向)
- 開口部
第2主体部(鞍部石棺)

第2主体部(鞍部石棺)は、後円部鞍部における箱式石棺である[1](かつては横穴式石室とされた[2])。現在は長さ2.8メートル・幅1.76メートル・高さ1.12メートルを測る。石棺の石材は緑泥片岩の板石で、蓋石には板石2枚が用いられたとみられる[1]。
1880年(明治13年)に発見されており、その際に人骨のほか金環3・頭椎大刀2・圭頭大刀1・銀装刀子1・挂甲小札若干・衝角付冑1・蓋脚付銅鋺1・鉄鏃50以上・革片2・布片・木片などの副葬品が出土している(現在は東京国立博物館保管)[1]。
- 内部
- 竪矧広板鋲留衝角付冑
東京国立博物館蔵、九州国立博物館特別展示時に撮影。
文化財
国の史跡
- 小見真観寺古墳 - 1931年(昭和6年)3月30日指定。
関連施設
- 東京国立博物館(東京都台東区) - 小見真観寺古墳の出土品を保管。
