尚寧王
琉球第2尚氏王朝第7代国王
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概要
王家分家である小禄御殿三世尚懿・与那城王子朝賢(第3代尚真王の孫)の長男で尚永王の娘婿。
前国王の尚永王には男子がなかったため、小禄御殿四世の尚寧王があとを襲った。なお、この時代は後世の御殿(王家分家の称号)という概念はまだ未発達だったと考えられ、その本拠地から尚寧王一族を、尚清王の家系(首里尚家)に対して「浦添尚家」と呼称する文献もある[1]。
尚寧在位中の1609年(万暦37年、慶長14年)に薩摩藩の島津氏に侵攻(琉球侵攻)され、降伏した。以後、琉球は日本(薩摩藩)に属し、日本の意向で貿易のため明にも属している形をとらされることになる。尚寧王は薩摩藩によって江戸に連行され、征夷大将軍の徳川秀忠に謁見、後に琉球に戻された。
慶長18年(1613年)、薩摩藩に奄美群島を割譲させられた。
第二尚氏の陵墓は玉陵であるものの、尚寧王は浦添ようどれに葬られたとされる[要出典]。この理由について、薩摩の侵攻を受けたことを恥じ入り王家の陵墓に入らなかったというのは創作された話で誤りと考えられる[要出典]。自分たちは正当な血筋でありながらオギヤカ(宇喜也嘉)により不当に廃された血筋であり、玉陵のオギヤカの碑文を考えればとても自分が入る気にはなれず、玉陵へ葬られるのを拒否し、自らが生まれた浦添の地に戻ったと考えるのが妥当である[要出典]。
