尹貞玉

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尹 貞玉(ユン・ジョンオク、朝鮮語: 윤정옥1925年 - )は、大韓民国英文学者市民活動家梨花女子大学校英文科名誉教授。元韓国挺身隊問題対策協議会共同代表。

慰安婦問題

1980年から国内外で挺身隊(慰安婦)の調査活動を開始し、1990年にその記録をハンギョレ新聞に掲載して慰安婦という存在を韓国世論に訴え出した[2]。自身もまた、挺身隊として連行される寸前だったが、両親の機転で難を逃れたと語っている[3]:14。1996年のクマラスワミ報告書によれば、尹は、国連の特別報告者に対しても、日本政府が性病のない処女を集める為に学校制度を利用したことを目撃したと証言している[4]

なお、女子挺身隊と慰安婦は異なるが、尹は、キーセン観光を「新挺身隊」と呼ぶなど[5]:73、慰安婦の同義語として使っている。

一九四三年一二月、私が梨花女子専門学校一年生のとき、日帝が朝鮮半島の各地で未婚の女性たちを挺身隊に引っ張ってゆくという恐ろしいことが頻繁におこるようになった。多くの学生たちは挺身隊を免れるために結婚を急ぎ、続々と退学しはじめた。この事態に驚いた学校当局は「学校側で責任をもっていうが、あなたたちには絶対そんなことはない」と公言した。しかし、間もなく私たちは国家総動員法に応じるという書面に捺印させられた。私は両親のすすめにしたがって退学し挺身隊を免れたが、そのころ私と同じ年頃の若い女性たちは日帝によって連行されていたのである。『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」』[3]:13,14

尹は、1988年の朝日新聞の「ひと」欄では、1943年、梨花女子大学(梨花女子専門学校)の一年生(18~19歳)の時、学生全員で青い紙に指紋を押させられたと証言しているが、3年後の毎日新聞では「14歳になったばかりのある日、在学中の女学校の地下室に集められ」指紋を採られた。自分は学校をやめたが、同級生は何人も挺身隊にとられたと、証言内容を変えている。朝日新聞のソウル特派員だった前川惠司は、指紋採取が14歳の時の出来事であったとすれば、女子挺身隊が創設される4~5年前に、親が挺身隊を心配して彼女を退学させたことになると指摘している。前川の取材では、日本人の女子挺身隊員には指紋採取はなかったという[5]:72-76

また、日本の研究者によると、梨花女子専門学校で女子勤労挺身隊が結成されたという事実も動員されたという事実もない[6]:16

2000年-2001年、女性国際戦犯法廷共同主催者。

アジア女性基金に反対し、基金が元慰安婦らに各500万円支援したことについて、「アジア女性基金を受け取れば公娼になる」「アジア女性基金の金を受け取ることは、ふたたび汚れた金で身を売ることだ」と述べ、元慰安婦らの受け取りを妨害した。1998年11月18日の水曜デモでは、基金から償い金を受け取ろうする韓国人慰安婦らの行為は韓国政府、韓国国民、挺対協への裏切りだと発言している[7][8][9][リンク切れ]

挺身隊問題対策協議会

1988年、韓国教会女性連合会主催のセミナーで挺身隊踏査報告を行い韓国教会女性連合会に「挺身隊研究委員会」設置させる。 1990年11月16日、韓国教会女性連合会、韓国女性団体連合会等16団体が参加して韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)を結成。挺対協の代表に就任。2001年から代表から名誉代表。

尹美香体制への批判

2020年、挺対協の後身団体である、日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連)や元代表の尹美香をめぐる元慰安婦からの告発、各種の不正疑惑に関連して、「挺対協は最初から『政治とは絡まない』というコンセンサスの下で出発した」「団体が前に出てお金を集めることは、慰安婦問題の実情を伝え、おばあさんたちを助けるという団体の精神に合わない」「1992年に始まった水曜集会初期も募金活動は全くなかった」と現在の正義連や尹美香を批判した[10]

支援者

1991年、衆議院議員会館の一階の応接室で女優の東丘いずひ、元政治家秘書の大杉実生と尹貞玉で打ち合わせをしていた時に、日本社会党土井たか子の女性秘書から「いつものです。活動費に使ってください」と渡された封筒に入った数十万から約百万円の札束を領収証も書かずに手慣れた手つきで受領[11]

2000年に、松井やよりと女性国際戦犯法廷を主催した。

著作

脚注

関連項目

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