尾崎貞兼
From Wikipedia, the free encyclopedia
尾崎 貞兼(おざき さだかね)は、南北朝時代から室町時代初期の武将。今川貞世(了俊)の四男。官位は播磨守。
建徳元年/応安3年(1370年)に九州探題に任命、翌建徳2年/応安4年(1371年)九州へ下向した父に他の兄弟と共に従い、九州平定に務めた[1]。応永元年(1394年)に相良前頼と共に日向の島津元久側の和田正覚の日向梶山城を攻撃、援軍に来た北郷久秀・忠通兄弟(正覚の外孫)を討ち取り、梶山城を落城させた。しかし、元久らの反撃で前頼を討ち取られ日向穆佐城へ撤退した。翌応永2年(1395年)に父が九州探題を室町幕府に罷免され、遠江に戻ったため、南九州の制圧はならなかった[2][3]。
貞兼のその後の消息は不明。永享5年(1433年)に駿河で今川範忠に反乱を起こした今川播磨守は貞兼とされ、尾崎伊予守は子孫とされるがいずれも不明[4]。