1895年(明治28年)に岡山県児島郡藤戸村(現在の倉敷市)に生れる[4]。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を1913年(大正2年)に卒業[5]し、1915年(大正4年)旧制第六高等学校へ進学[6]。同期には、東京帝国大学教授になる宇野弘蔵、関西大学教授になる高木益郎などがいた。1918年(大正7年)同校を卒業し、同年、郷里の同期である高木益郎と共に、京都帝国大学法学部へ進学する[7]。京大を1921年(大正10年)に卒業した[8]。
1922年(大正11年)4月1日に、陸軍法務官に任命され、高等官七等となる。その後、第三師団軍法会議の法務官となり、1942年(昭和17年)4月1日には、 陸軍法務大佐となった。同年6月には、第1航空軍法務部長、翌年、1943年10月には、第2方面軍法務部長を歴任し、遂に1945年(昭和20年)3月1日 、50歳のときに陸軍法務少将へ就任した[2]。
しかしながら、日本軍の第二次世界大戦末期における情勢は芳しく無く、1945年(昭和20年)6月10日には、東部軍管区司令部附となり、同年7月12日、中部軍管区法務部長・第15方面軍法務部長と日本各地を転々とするが[2]、遂に同年8月15日、日本は終戦を迎える。戦後は、1945年12月に設置された、第一復員省の高等裁判所法務官をつとめ[9]、1946年まで勤務した。
1965年(昭和40年)5月13日、死去。享年70歳。