山下三郎 (政治家)

From Wikipedia, the free encyclopedia

生年月日 (1930-01-01) 1930年1月1日(95歳)
出生地 広島県
出身校 山陽中学校(現・山陽高等学校
山下 三郎
やました さぶろう
生年月日 (1930-01-01) 1930年1月1日(95歳)
出生地 広島県
出身校 山陽中学校(現・山陽高等学校
称号 旭日中綬章
親族 子・山下智之(広島県議会議員)

当選回数 4回
在任期間 1991年11月3日 - 2007年11月2日
テンプレートを表示

山下 三郎(やました さぶろう、1930年昭和5年)1月1日[1] - )は、日本の政治家。元広島県廿日市市長(4期)[2][3]広島市への原子爆弾投下における被爆者の一人。

幼時に両親を失い、広島県佐伯郡宮内村の山下家に養子として入った[4]

旧制山陽中学校(後の山陽高等学校の前身校)の生徒だった15歳のとき、学徒動員されていた先の広島市内の工場で被爆した[3][4]

経歴

戦後、一時期は県職員として働いたり、農業に従事していた[3][5]

1955年、25歳で宮内村議会議員となり、以降、合併などにより、廿日市町議会議員、廿日市市議会議員を歴任した後、1991年に廿日市市長に初当選し、以降4期を務めた[2][4]。この間、佐伯中央農協理事、道路管理会社社長、廿日市市議会議長、市土地開発公社理事長などの役職を歴任した[6]

1991年の初当選、1995年の再選は、いずれも無投票での当選であった[7]1999年の3選では共産党公認[6]2003年の4選では無所属の対立候補に、いずれも大差をつけて当選した[8]

山下は、被爆者としての証言活動を、市長になる前から、長く続けていたが[3]、市長在任中も、「被爆市長」として、小学校や、各種の集会に出向いて被爆体験講演を続け、2005年には、国連本部における核不拡散条約 (NPT) 再検討会議の際に、日本非核宣言自治体協議会副会長としてニューヨークに出向き、被爆体験を語った[4][5]。また、近隣に位置する岩国基地の増強には反対の姿勢を貫いた[9]

山下市政の時代には、自由民主党から新社会党まで、ほぼオール与党という体制の下で、広島県西部のベッドタウンとしての人口増、平成の大合併による市域の拡大などを受け、大規模な公共事業が多く取り組まれたが、それによって市の財政は悪化したとされる[10][11][12][13]。後継の市長には、副市長だった眞野勝弘が当選した[13]

日本赤十字広島看護大学の誘致や[6]、二次にわたる広域合併を通した市域の拡大も、市長在任中の業績に挙げられる[3]

市長引退後は、広島県社会福祉協議会会長などを務めた[4]

2005年には、私家版の自叙伝『地方自治一筋に : 政治生活50年の歩み:山下三郎自叙伝』を刊行した[14]

栄典

2008年春の叙勲では、旭日中綬章を受章した[15]

家族

脚注

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI