大火翌日の早朝から瓦礫の整理や簡易バラックの制作が始まった。温泉電車山中停留所の焼け残ったホームを利用し、山中駅を開設。消防隊や在廊軍人団、青年訓練所員など、およそ700人が集まり、トラック8台を用いて瓦礫の整理を進めた。一方で、バラックの増設、電話、電灯の電柱の建設も行われた。
好天に恵まれたこともあり、整理は順調に進んだ。江沼郡女子青年団による炊き出しも行われた[6]。
翌年の1932年(昭和7年)、昭和天皇・香淳皇后より、2000円の見舞金が送られる。6月29日には義援金1回分の1万5047円30銭が791世帯に3669人に分配された[7]。
当時日本は、世界恐慌の影響による昭和恐慌で不況のどん底であったため、物価が安かった(民家700円から1500円で二階建ての住宅や店舗を新設することができた。)[8]。
5年後の1936年(昭和11年)には、新築の家屋は628戸に上り、観光客も火災前に比べ3割増加した。ダンスホール、天楼閣など近代的な設備を取り入れ、次々と宿泊施設が再建された。街中には当時珍しいエレベーターを備えた旅館が2軒もあった。全国的にも大規模な観光温泉として復興した[9]。