山中幸徳 From Wikipedia, the free encyclopedia 山中 幸徳(やまなか こうとく、生年不詳 - 1897年)は、日本の英学者、教育者。第三高等学校(現・京都大学)教授、同志社英学校(現・同志社大学)教授、大阪・英和学舎(現・立教大学)教授[1][2]。 肥前国唐津藩士、山中俊介の長男として生まれる。幼名は小太郎[1]。 唐津小笠原家の世嗣である小笠原長行から学資支援を受けて、米国に留学し、オレゴン州のオーベル大学に入学すると、勉学につとめて卒業し、文学士・神学士の学位を取得[1]。 日本に帰国すると、第三高等学校(現・京都大学)や同志社英学校(現・同志社大学)の教授を歴任し、高等官五等に任ぜられる[1]。 そのほか、大阪・英和学舎(現・立教大学)の教授も務めた。英和学舎では、校長のテオドシウス・ティングを始め、アーサー・モリス、ヘンリー・ラニングら有力な宣教師が授業を受け持ったほか、洋行帰りの山中幸徳に加え、当時英文学者として名声を得ていた清水泰次郎(後の同志社英学校教授、第五高等学校教授)、後に立教中学校初代校長となる左乙女豊秋らを擁し、英語では断然他校を圧倒した[1][2]。 1897年(明治30年)京都において病死し、左京区にある若王子山キリスト教共同墓地に葬られた[1]。 脚注 [脚注の使い方] 1 2 3 4 5 6 『長行公と山中藩士』 唐津藩開国論秘話 1 2 『立教大学新聞 第89号』 1930年(昭和5年)6月18日 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。表示編集 Related Articles