小学校卒業後の1913年(大正2年)、東京モスリンの募集を知り、「寄宿舎があり、仕事は楽、学校へも行ける」と聞かされ、親の反対を振り切って上京した。しかし労働内容は12時間立ちづくめ、食事も貧相で、過酷な環境であった[2][3]。
1914年(大正3年)6月、工員の大量解雇に対してストライキが起きた。みなにとっては初めてのストライキ体験であった。当時は労働組合はなく、会社側は労働者団体である友愛会のみ交渉に応じたため、みなは友愛会を味方と知り[2]、活動に参加した[3]。
同1914年、友愛会に婦人部が設立された[4]。1917年(大正6年)、友愛会の創立5周年大会で、代議員として初めて演説した。みなはこの演説で女工の実態について語り[5]、「私は社会のために働く」と宣言した[6]。実際には事前に懸命に書いた原稿を、演説の場では大衆を前にして完全に忘れてしまったというが、観衆からは拍手が巻き起こり[4]、翌日の『萬朝報』では「資本主義の圧迫から免れたい、そして社会の人としての待遇を得たいと女労働者は絶叫した」と報じられた[4]。
この演説は、市川房枝、平塚らいてう、奥むめおといった婦人運動家たちとの出会いのきっかけとなった[6]。1919年(大正8年)10月には国際労働機関のワシントンでの第1回会議に際して、市川房枝により労働者代表に推薦されたが、日本労働総同盟の反対に遭って辞退した[5]。
向かって右、25歳当時の山内みな。左は平林たい子。
労働運動で著名となったため、会社からは人員整理で解雇された。その後は学校に通いながら、市川ら新婦人協会の書記を務めて、会の運営を手伝った[2][3]。さらに山川均夫妻の元での勉強を経て、1922年に『労働週報』の編集部に勤めた[7]。1925年、総同盟の分裂後、左派の日本労働組合評議会で活躍した[3][7]。
翌1928年(昭和3年)に、左翼団体へ圧力がかかった。みなは運動の混乱下で結婚、夫の家のある大阪に移り、一時、運動の第一線から退いた[3][7]。戦中と戦後を経て、疎開先で洋裁店を営みつつ、政治運動を再開した。1946年(昭和21年)と1947年(22年)には衆議院選挙に出馬し、「労働者の国を作る」と唱えたが、落選した[3][5]。
1950年(昭和25年)には上京。洋裁店を続ける傍らで、「婦人運動には住民と一緒の活動が必要」との考えから住民組織に参加して、ごみ処理場建設運動や、街の美化、街灯の設置など、身近な問題に取り組んだ[6]。1954年(昭和29年)のキャッスル作戦(ビキニ環礁での核実験)後は、原水爆禁止運動にも関わった[3][6]。1990年(平成2年)10月21日、89歳で死去した[1][6]。
女工から始まり、十代にして労働運動に身を投じたその生涯は、社会運動史そのものとの声もあり、1975年(昭和50年)に発行した自伝『山内みな自伝』は、「山内みなと共に同時代を生き、働き、共に戦った有名・無名の何万もの女性たちの歴史」とも評価されている[6]。
没後の1996年(平成8年)9月、記録映画作家の羽田澄子による映画『女たちの証言』が公開され、丹野セツや福永操ら、昭和期の社会運動家たちと共に、当時の過酷な生涯が取り上げられた[8]。