山内氏勝
From Wikipedia, the free encyclopedia
略歴
天正17年(1589年)の摺上原の戦いで蘆名氏は伊達政宗に滅ぼされるが、氏勝は居城・中丸城、その落城後は水久保城に拠り、政宗に抵抗を続けた。その間、豊臣秀吉の意を受けた石田三成や上杉景勝の助勢もあり、ついには翌年の奥州仕置までに水久保城を持ちこたえることができた。しかし戦後の奥州仕置によって旧蘆名領は全て蒲生氏郷に与えられるという裁定がなされたため、結果として所領を失うことになった。政宗との交戦中、三成から本領を安堵するので秀吉が会津に攻め入るまで政宗との戦いを継続せよという旨の書状が氏勝へ送られたが、結局は反故にされた。
所領没収後は出家し、俊勝と号した。50余名の家族・家臣とともに越後国下田郷(現在の新潟県三条市下田地区)に逃れ、家臣たちと当地で農業などをして生計を立てていたと伝えられる。
慶長13年(1608年)、死去。出家して禅僧だったため下田郷にある上大浦三大寺で葬儀が行われ、墓は真言宗である同地区の延命寺に立てられた。また、現在でも下田郷地区にはかつて山内家の家臣であったことを言い伝える家が多い[3]。