享徳2年(1453年)、山名宗全の子として誕生。
細川氏嫡流・京兆家の当主(管領でもある)・細川勝元の妻は宗全の娘(養女とも)であり、継嗣の無かった勝元は、妻の実家であり、友好関係にあった山名氏より養子として豊久をもらい受けた。
文正元年(1466年)、勝元に実子の政元が生まれると、豊久は廃嫡され、仏門に押し込まれた。この一件は宗全と勝元の対立を生み、応仁の乱勃発の一因になったといわれている。その後、豊久は鄧林宗棟(とうりんそうとう)と改名し、大徳寺68世、妙心寺17世となった。
文明11年(1479年)、毛利次郎の乱が発生すると、「山名七郎」が守護方の一員として鎮圧にあたったが、これを豊久に比定する説がある[1]。
大永2年(1522年)10月25日、豊久は70歳で没した。