山崎正 (作詞家)
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東京市亀戸町に生まれ、母親の再婚を機に群馬県高崎市に転居、旧制高崎中学卒業後、東京美術学校に入学、高橋掬太郎門下で作詞を学び、歌謡同人誌「幌馬車」の同人となる[1]。
1937年、日中戦争による召集で高崎歩兵第15連隊に入隊、同年9月20日、傷病により現地の野戦病院に収容、翌10月4日に満州チチハル陸軍病院に転院[2]。病院で作詞を続け『踊る支那兵』を「幌馬車」に発表。帰還後に前橋市の料亭「鳥辰」の長女ふみ子と結婚、1942年に作詞した『暁の門出』『茶作り次郎長』『軍歌千里」がレコード化されプロの作詞家としてデビューするも、1944年に再び召集、東部軍管区宇都宮師管区歩兵第三補充隊(東部第38部隊)の兵長として内地で終戦を迎える[1]。
戦後、日本作歌者協会の会員に推薦され[3]、1951年に単身上京、文化放送に所属してラジオのCMソングなどを手がけながら作詞を続け、1954年、キングレコードから渡久地政信の作曲で『お富さん』を発表、春日八郎が歌い大ヒット、春日はNHK紅白歌合戦にこの曲で初出場、松竹は嵯峨美智子の主演で『お富と切られ与三郎』として映画化した[4]。また山口俊郎編曲による『酒の苦さよ』も三橋美智也が歌いヒットを記録、人気作詞家となり、『歌で別れる港町』『小雨がぽっとん』など数多くの歌謡を作詞、1956年には『前橋音頭』も手がけた[1]。
1964年、社団法人日本作詩家協会理事に就任。前橋市石川町に「山崎歌謡教室」を開き後進の指導にあたっていたが1968年、51歳で死去[1]。