山川重英
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略歴
目付から普請奉行・町奉行・御蔵入奉行等を経て、文政3年(1820年)に奉行職(勘定奉行)に列し、困窮した藩財政を再建した。さらに天保3年(1832年)の若年寄を経て、天保10年(1839年)に家老へと進んだ。
第8代藩主・松平容敬の兵衛に対する信頼は絶大で、重英の1代で山川家は家老の家筋にまで躍進し、知行もそれまでの300石から1,000石となった。
美濃高須藩から容保が会津へ養子に来た際は、守役として養育にあたった。
安政6年(1859年)に退隠し、息子の尚江に家督を譲るが、翌年に病死したため嫡孫・大蔵(浩)を後見した。戊辰戦争では高齢ながらも隠居勤を命じられ、家族とともに篭城した。
明治2年(1869年)、容保の嫡子容大の出生により、その補導役を命じられるが、間もなく河沼郡水谷地村(福島県河沼郡湯川村)で死去した。享年86。