山本庄司
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| 山本庄司 やまもと しょうじ | |
|---|---|
| 生年月日 | 1857年6月7日 |
| 出生地 |
(現・秋田県能代市) |
| 没年月日 | 1924年5月7日(66歳没) |
| 所属政党 | 秋田改進党 |
| 子女 |
三男・山本徳三郎 四男・山本勇 |
| 在任期間 | 1899年10月16日 - 1903年9月24日 |
富根村長 | |
| 在任期間 | 1893年 - 不明 |
飛根村会議員 | |
| 在任期間 | 1884年 - 不明 |
| 選挙区 | 山本郡選挙区 |
| 当選回数 | 8回 |
| 在任期間 |
1882年4月 - 1889年 1897年8月 - 1898年12月1日 1899年9月 - 1903年 1905年3月 - 1907年 |
山本 庄司(やまもと しょうじ、1857年6月7日〈安政4年5月16日[1]〉 - 1924年〈大正13年〉5月7日[2])は、日本の政治家。
山本郡富根村(後に二ツ井町となり現在は能代市の一部)出身[3]。1873年(明治6年)に秋田市の白土塾で学んだ[4]。家督を受け継いでおり、妻や子もいたが、妻や妻の兄(瀬谷長治)の理解を得て、1879年(明治12年)3月16日に上京した[3]。東京では二松学舎に入学し秋田県出身の狩野良知の元に1週間に1度「不可解のカ処質問」をしに赴く勉学に励み[5]、自由民権思想を吸収した。およそ4か月半東京に滞在した後、暑気に当たったことと流行のコレラの心配から帰郷した[6]。1880年(明治13年)に遐迩新聞に「国会開設建議有志団結案」を発表[4]。同年、北羽連合会(後に有舌会と改称)を結成する[4]。1882年(明治15年)に秋田改進党を設立に参加した[4]。同年4月、秋田県会議員補欠選挙に山本郡選挙区から立候補して、初当選を果たした[7]。以後、同年6月、1884年(明治17年)、1885年(明治18年)、1887年(明治20年)と当選する[7][8][9]。1884年(明治17年)に飛根村会議員となった[4]。1889年(明治22年)に県会議員を退任した[9]。1893年(明治26年)に富根村長となった[4]。1897年(明治30年)8月に県会議員に返り咲いた[10]。しかし、1898年(明治31年)12月1日に解散に伴い失職した[10]。1899年(明治32年)9月に返り咲いた[11]。また、同年10月16日から1903年(明治36年)9月24日まで第20代秋田県会副議長を務めた[12]。同年県会議員を退任したが、1905年(明治38年)3月に補充された[11]。1907年(明治40年)に退任した[13]。