山村辰雄
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呉・山村組結成
1903年(明治36年)広島県呉市に生まれる。18歳で呉市の酒梅組系博徒・小早川静馬の盃をもらい、渡世入りを果たす。その後、阪神方面を流浪し浪速造船所の工員となる。1944年(昭和19年)、故郷の呉に戻る[注 1]。
1946年(昭和21年)42歳のとき、呉の顔役である海生逸一[注 2]の資金援助を受けて「土建業山村組」を立ち上げる[注 3]。海掃事業に乗り出すかたわら、博徒組織としても活動を始める。主筋を持たない小さな博徒組織や愚連隊などが組員として集められた。若頭・佐々木哲彦[注 4]をはじめ、山本信二、大段茂、野間範男、鼻万三、新居勝巳[注 5]、樋上実など、みな一匹狼の博奕打ちか、チンピラのようなものであった。企業活動は順調で経済基盤は徐々に拡大した。事業の追い風に乗って博徒組織としても上向き調子であった。ライバル 阿賀・土岡組幹部・大西政寛を籠絡し、ついには土岡博組長を殺害。呉の裏社会を牛耳るようになる。
若頭・佐々木哲彦の造反[注 6]により引退に追い込まれるも、小原組組員・門広[6]一派による佐々木哲彦殺害[注 7]により復権を果たす[注 8]。以降、呉は山村組が、広、阿賀は小原組が仕切ることとなる。
1954年、競艇場の施設会社として設立された宮島競艇株式会社(設立時の社長は宮島町長・梅林義一[9])の取締役に山村が就任[10]。
1957年、宮島競艇は大栄産業に社名変更した[10]。
1959年、設立時の主要役員が退陣し山村が大栄産業社長に就任[10]。
広島・山村組の誕生
1962年(昭和37年)5月、広島の岡組組長岡敏夫が引退を表明、後継者に山村辰雄を指名する。
1964年(昭和39年)2月、脱税容疑で大栄産業に広島県警の捜査が入り、山村は7月に起訴された[10]。
逮捕・そして晩年
1964年(昭和39年)5月、山村組が中心となって友誼7団体約600名で[11]、連合組織「政治結社共政会」が発足する。初代会長に山村辰雄が就任するが、その地位は1年程であった[注 9]。1965年(昭和40年)6月9日、弁護士を伴って広島東署を訪れ「引退」を表明する。しかし、会長の座を退いた後も山村は裏社会に隠然たる影響力を持ち続け、完全にヤクザ社会から退いたわけではなかった。山村が完全に身を引いたのは1967年(昭和42年)頃であった[注 10]。