山東京山
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江戸深川の質屋の次男として生まれる[1][2]。幼時に漢学や書画を学び[1]、寛政3年(1791年)に外伯母の鵜飼氏の養子となり、助之丞と名乗る[1]。その後、篠山藩などに仕えるが、寛政11年(1799年)に致仕する[1][3]。同年、京伝の作品に「京山」の名で讃詞を出したのが文芸活動の始まりである[1]。文化元年(1804)頃、佐野東洲の婿養子となるが、文化3年(1806年)頃に離縁[1]、田村養庵の娘と再婚した[1]。
文化4年(1807年)に『復讐妹背山物語』を刊行した後、京橋に移り住み、それ以後は篆刻と合巻・読本執筆を業とした[1]。兄の京伝が死ぬと、兄の子どもの後見役となって京伝の店を繁栄させ、石州流の茶の湯の師匠も務めるなどして、膨大な財を成した[1]。
天保7年(1836年)5月から9月まで越後に滞在し、鈴木牧之『北越雪譜』の刊行に尽力した[1]。「京山人百樹」名義で同書の刪定(添削・修正)にあたった。同作の出版に際して、京伝の死後に感情的にもつれていた曲亭馬琴との関係がさらに悪化した[1]。
天保9年(1838年)剃髪して涼仙と名乗り、晩年まで積極的に執筆活動を行った[1]。1858年(安政5年)、江戸で多くの死者を出したコレラに感染して死去[4]。90歳。



